碓井美仁(21)・書店員

『連続的恋愛綺譚』より


「うぇっ」

 日向臭い和室に踏み潰された蛙のような声が響く。

 長いこと物置同然だった六畳間は、十分な換気がされていないせいでどこかじっとりとした湿った空気がこもっている。三月も半ばになったというのに、未だ冬のように温度も低い。美仁(よしひと)はいつの間にかつめたくなってしまった指先を擦りあわせながら、

「捨ててなかったんだ、こんなの」

 とひとりごとを零した。二〇×二〇、四〇〇字詰めの黄ばんだ原稿用紙を人さし指と親指で摘み、ぴらぴらと揺らしてみる。我ながら、お世辞にも綺麗とは言えない字だ。十年ほど昔の字だが、いまとそうかわらないところがなんとも情けない。

「しかしすげえ量」と、視線を上げて美仁はつぶやく。まるでテトリスのピースを嵌めこんでいくようにきちきちと積まれた段ボールは、一部天井に届きそうになっている。総重量も相当なものだろう。床が抜けないのが不思議なくらいだ。

 遠足のしおりや文集など、夥しい量の紙類に思わず眉を顰めた。小学校というのは得てして不可解な決まりごとや習慣の多い場所だった。強制的に参加させられるこまかな行事にも、〝皆仲よく、皆お友達〟という信仰にも、六年通っても馴染むことはできなかった。

 自分には、いじめられっこの素質みたいなものがあるのだろう。同じ家で育った兄や弟たちにはないし、もちろん美仁だってできることなら備えたくないものだったけれど。

「父さんや母さんはどうだったのかな」

 遺伝だとしたら、どちらかがその素質を備えていたことになる。恨み節を言いたいわけではなく、単純に訊いてみたい。いじめられたことはあるか。あるとしたら、どうやってそこから抜けだしたのか。

 そうは言っても、末の弟が生まれたあとすぐに交通事故で亡くなった両親のことを、美仁はほとんど覚えていない。自分を抱いている母の写真を見ても、「俺の女装みたい」と思うだけで、郷愁を覚えるということは残念ながらない。

 黄ばんだ原稿用紙はすっかり劣化して、端のほうがかりかりに乾いている。

『ぼくのおじいちゃん・おばあちゃん/二年四組碓井美仁』。美仁以外のクラスメイトは、『ぼく/わたしのお父さん・お母さん』というタイトルで書いた作文だ。

 子供というのは大人が思っているよりずっと残酷で用心深い。自分と違うものに対する反応は、冷酷と言ってもいいくらいだ。

 不快にせり上がってくる記憶をぐっと喉元で押し留めて、美仁は首を振った。情けない、とふたたび思う。もう小学生ではないのに。

「みいーっ。いるんだろーっ」

 作文をまるめて捨てようとしたとき、外から耳慣れた大声が響いてきた。美仁はつま先立ちになって床に広げたものを避けながら窓のそばまで近づく。建てつけの悪い窓をぐいぐいと押すようにして開けると、指先はざらついた感触とともに黒く汚れた。この部屋はずいぶんほったらかしになっていたようだ。綺麗好きの弟がここだけ掃除をしないのは、始めたが最後一日仕事どころでは済まない、とわかっているからかもしれない。

「うるさいよ、武雄(たけお)」いまにも外れそうな不穏な音を立てて開いた窓から顔をだし、ぼそぼそと美仁は言う。「そんな大声ださなくても聞こえるって」

 平日の真っ昼間。住民の平均年齢が著しく高い町内はこわいくらいにしんとしている。

「だってお前携帯鳴らしても全然でねえんだもん。見つかったァ? 写真ー」

 武雄は大きな声のまま続ける。玄関前に立っているその姿は、地元のヤンキーそのものだ。美仁の感覚ではあきらかにサイズの大きなダウンジャケット、膝の破けたジーンズや、アッシュなんとかという色に染めている短い髪。

「――あ、携帯」

 居間に置きっぱなしにしているそれの存在を思いだし、美仁は首の後ろを掻いた。雅臣(まさおみ)から連絡が入っていたら厄介だな、と思いながら。――あのねえ、携帯するから携帯電話っていうんだろ。なにかあったときに困るじゃないか――弟の、神経質というかやや小姑めいた苦言が頭を過る。

「みい? なにボケッとしてんだよ。寒いからとりあえず開けろよ」

 こちらを見上げている武雄の鼻先は二階から見てもわかるほどに赤くなっていた。吐く息こそ白くはならないが、気温はやはり春とは言い難い。

「ちょっと待って、いま下りるから」

「おーう」と答えてから、武雄は手に持っていた紙袋をひょいと掲げた。なんの変哲もない茶色い紙袋には、筆で書いたような渋い書体で〝つる屋〟と印刷されている。にっと歯を見せて笑う武雄に、美仁も「おっ」と短く声を上げた。

「こしあん?」

 引っこめかけた顔を勢いよくだして訊ねる。

「つぶあん! 俺はつぶ派だからな」

「ちぇっ。まあいいや、おごりなら」

 ほこりの積もった固い窓を閉め、踏みしめるごとにいつ崩壊してもおかしくない音を立てて軋む階段をばたばたと駆け下りた。

 

 

 築年数四十年以上五十年未満。どっしりとした昔ながらの木造建築で、部屋数が多く、空間は広々としている。しかし長所と言えるその広さも、一年の半分以上は憂鬱の種となっているのだから、最早短所と呼ぶべきかもしれない。

 古い+広い=……

「寒い!」

 ……というわけだ。ダウンジャケットのファスナーを下ろした武雄が、そこから入ってくる冷気に思わず叫ぶほど。

 碓井家の居間は、未だ冬支度の様相を呈している。毛足の短い敷物の下にはホットカーペットが敷かれているし、もちろんこたつもだしっぱなしだ。部屋の模様替えを気温に準ずると必然的に四月の終わり頃までこの状態を保つことになる。

「みいんちくると、底冷えって言葉を体感してるなあって思うよ、いつも。外とかわんねえじゃん」

「はいはい」机の上の携帯電話に、メールも電話も入っていないことを確認しながら美仁は言った。「って言うか寒いことわかってんだから穴の開いたジーパン穿いてくるなよ」

「穴って言うな穴って。ダメージね。あと、ジーパンじゃなくてデニムだから」

「誰からダメージ受けたんだよ。……ってか、素材名じゃん、デニムって」

「いまはそういうもんなの」

 あんまりさらりと言い返されたので、「いつからそうなったんだ」と訊ねる気も失せた。うう寒、と小さく唸り声を上げながら、武雄がこたつ布団に身体を入れる。「あ、なに電気入ってないし」と文句を言い、勝手知ったるようすでコードから伸びた電源をオンにしている。

 小山武雄は、小学生の頃からの友達だ。親友――という言葉を美仁はやや胡散臭いと思っているのだが――と言っていいと思う。猫科の動物のようにつり上がった目や、ぽんぽん言葉がでてくるところ、複雑な色に染めた髪をいちいちセットしているところや、ダメージを受けたデニムを穿いているところ……等々、どちらかと言うと犬顔、口下手で、服は周囲から浮くほどまずくなければそれでいい、と思っている美仁とは、およそ共通点がないけれど、それでも。

「そりゃそうだよ。いま俺一人しかいないし、さっきまで二階にいたんだもん」

 さっさとくつろいでいる武雄を後目に、美仁は引き戸を一枚隔てた台所に立った。流しに置いてあった急須の蓋を開けて中身を確認すると、家族の誰かが今朝入れたのであろう湿った茶葉が入っていた。まだでそうだと思ったが、中身を三角コーナーに捨てて新しい茶葉を入れる。武雄はいちおう客人だ。

 ほとんど家族みたいなもんだけどね、と心の中でつぶやきながら、電気ポットの頭を押してじゃこじゃこと急須に湯を注いだ。

「あ、誰もいねーんだ?」

「当たり前じゃん。平日だよ? 聖兄は仕事、雅となっちゃんは学校」

 二客の湯呑みと急須をのせた盆をこたつ机の上に置き、美仁も布団の中に足を入れる。じんわりとした温みが、二階の物置部屋で冷えたつま先を包んだ。

「学生じゃなくなると年々曜日感覚なくなるんだよな。みいもそうじゃね?」

 つる屋の紙袋をがさがさ開けながら武雄が言う。

「まあね。学生の頃は嬉しかった祝日がいまではちょっと鬱だもんな」

 美仁もお茶を注ぎつつ答えた。

「接客業の辛いとこだよ。臨時営業にすんなら振替休日も作れって言ってんだけど、母さんがうんって言わねえんだよなあ」

「おばちゃん働き者だからね。元気? しばらく会ってないけど」

 武雄そっくりの笑顔を思い浮かべながら美仁が言うと、「あー元気元気」と、面倒くさそうな答えが返ってきた。

「横への成長が止まんねえよ。あんだけ働いてんのになんでそうなるのかマジで謎」

 高校を卒業してから、武雄は実家のクリーニング店を手伝っている。主な仕事はバイクを使っての集荷や集配だ。

「そうだ。みいがだしてたスーツ、来週の水曜には一式仕上がってるからさ。また取りにこいよ」

「あ、そっか。だしたこと忘れてた」

「困りますよーお客さーん。預かり期間を過ぎたお品はこちらで処分しちゃいますよー」

〝お客様控え〟に書いてある文言をもじって武雄が笑う。高校生の頃、「実家継ぐなんてダサい」などと言っていたのが嘘のようだ。いまもなんだかんだと文句は言うけれど、仕事にやり甲斐を覚えているのはそばで見ていればわかる。根は真面目なのだ。見た目はヤンキーで、集荷にいくたび近所のお年寄りにその格好について小言を言われてはいるけれど。

「なんだよ」

 怪訝な武雄の視線に、美仁は自分が無意識のうちに微笑んでいたことに気付く。「なんでもなーい」と答えてから、

「って言うか、水曜にできるなら武雄が持ってきてくれたらいいじゃん。どうせ来週も暇なんだろ?」

 と言った。

 コヤマクリーニングの定休日は木曜だ。それは、学生でなくなったいまでも武雄が遊びにくる曜日であり、美仁がわざわざ職場に希望して休みを取っている日でもある。

 毎週木曜日の習慣。とくに約束をしているわけではない。二人でいてもそれぞれ漫画やゲームに没頭することも多く、挨拶以外はほとんど口をきかないまま時間が過ぎていくこともある。そうこうしているうちに、どちらかがどちらかの腿や腹を枕にして眠りこけてしまうことも。

「暇じゃねえし。あと、お届けには別料金がかかるんですけど?」

 武雄は口を尖らせ、袋からだした狐色の大きな饅頭を美仁にさしだす。

「あー久々に食べるとやっぱうまーい。つる屋のあんまん」

 手渡されたそれを半分に割って、端っこから一口噛み取って言った。「話聞けよなあ」と言う武雄も、美仁の満面の笑みにつられて笑う。あんまんは、コヤマクリーニングと同じ並びに昔からあるまんじゅう屋・つる屋の看板商品だ。一般的には大判焼きと呼ばれるものだが、このあたりで育った子供は皆あんまんと呼んでいる。

「これで二個税込み百五十円はすげえよな。潰れないのが謎だ。つる屋のじいちゃんの歳くらい謎」

 武雄の言葉に、十年前からまったくかわっていない禿頭の店主を思い浮かべて思わず笑い声を漏らした。

「でもさあ、なんでニコイチでしか売ってないのかなあ。同じニコイチにするなら、つぶあんとこしあんのセットにしてくれたらいいのに」

「どっちも食いたきゃ二セット買えってことだろ。いいじゃんべつに。味は一緒なんだし」

「じゃあこしあん買ってきてよ」

「やーだ。つぶのほうが美味いの」

「味は一緒って言ったじゃん」

「文句言うやつにはもう買ってこねえぞ」

 う、と美仁が口ごもると、武雄は勝ち誇ったように鼻先を高く上げた。

 確かに味はかわらない。ただ、つぶあんの、小豆の皮が歯に挟まったり張りついたりする感じが子供の頃から好きになれない。行儀が悪いとわかってはいても、食べ終わったあとは必ず舌先で歯を撫でて点検してしまう。

「みい、癖だよな、それ」

 美仁がやっと半分食べ終えたとき、武雄は既に最後の一口を飲みこんで緑茶を啜っていた。

「なに?」

「あんまん半分に割ってから食うの」

 たいして面白いことでもないと思うのだが、武雄は目を細めて笑っている。

「ガキの頃からずっとそうじゃん。で、半分食ったら腹一杯になっちゃうの。よくみいのばあちゃんが言ってたよな。みいちゃんが残したもの食べてたら、おばあちゃんコロコロ太っちゃったよって。あ、それに食ったあとさあ、」

「昔のことだろ」

 遮るように美仁は言った。「いまはまるまる一個食べられるよ」むっとした顔でもう半分を食べだすと、武雄はそれがまたおかしいと言わんばかりにくくくと肩を揺らして笑った。

 武雄の笑顔だって、昔からちっともかわらない。目尻に横皺がくっきり寄るところも、目自体が糸みたいに細くなってしまうところも。決して美形だとかイケメンというわけではないのに、どこか人を惹きつけるところも、昔からかわらない。

 記憶というのは厄介だ、と美仁は思う。

 たとえば美仁が一流企業に就職しても、世界を舞台に活躍するサッカー選手になっても、総理大臣になったとしても、武雄の記憶からあんまんを半分しか食べられなかった頃の姿を消すことはできない。直接触れられないものはどうしたってかえることができないのだ。それは、ほんとうに厄介なことだと思う。

「そんなことより、武雄のほうは見つかったのか? 写真」

 いつもより大きく口を開けて残りのあんまんを頬張り、熱い緑茶で流しこみながら訊ねた。

「おう。みいは?」

「まだ。アルバムとか二階の物置部屋に纏めて突っこんであるみたいなんだけど、カオスでさ。なかなか辿りつかないの」

 ほこりの積もった部屋を思いだし、美仁はため息をつく。あの中から小学生の頃の写真を集めたアルバムを探しだすなんてことができるのだろうか。アルバムを管理していた祖母が亡くなってから、もう十年近く経つのだ。

「まあ俺のほうで見つかったぶんだけで足りるんじゃねえ? って言っても、結婚式で流すスライドに使えるかって言われると微妙な写真ばっかだけどな」

 武雄の苦笑いに、美仁も同意するように笑った。

「ま、笹やんも俺と一緒で万年補欠組だったからなあ」

 眼鏡をかけた、お調子者なのにどこか繊細なところがある元チームメイトを思い浮かべる。武雄にしつこく誘われて入った少年サッカーチーム・スターウェイヴで、六年生になってもレギュラーになれなかったのは美仁と笹やん――笹岡くらいだった。万年補欠組の二人は、試合前になるとほとんどマネージャーのような役割に徹していた。

「あ、いやでも、笹やんとみいがこまかいこと色々世話してくれたり、試合中率先して声だして応援してくれたの、俺ら心強かったし嬉しかったよ。コーチも助かってたと思うぜ」

 美仁自身は単に事実を述べたつもりだったが、万年補欠という単語に反応した武雄は早口で言った。

「そうかねえ」

 ズズ、と音を立てて緑茶を啜った。適当な相槌に比例するように、熱っぽい口調で武雄が続ける。

「そうだべ。っていうか皆そう言ってたし。ずっと一緒にがんばってきた笹やんやみいが〝がんばれ〟って言ってくれると、なんか実感こもっててやる気でるっていうかさ。ほかのやつが言うのとは全然違うんだよ」

 またやっちゃった、と美仁は思う。自虐的な発言をすれば、武雄がこうして懸命に――やや居た堪れなくなるほど懸命に――フォローしてくれることはわかっているのに。

「しかし、結婚ねえ。あの笹やんがねえ」

 湯呑みを置き、話を切り替える。どこかほっとしたように、「だよなあ」と武雄が頷いたことが、ささくれのような小さな痛みとなって胸を掠めた。

「相手の子ってあれだろ? 高校から付き合ってた子」

 笹岡の彼女とは、高校生の頃一度だけ町内ですれ違ったことがある。制服のブレザーの下にメンズサイズのカーディガンを着こみ、スカートを物凄く短くしていた。笹岡のことを、「さっぴ」という不思議なあだ名で呼んでいた。つけまつ毛が毛虫のようだった。美仁が彼女に関して覚えていることと言えばそのくらいだ。

「同棲しよっかなとか言ってたから、そのままずるずるいくのかと思ったけど。一足飛びで結婚ってのはびっくりした。なんかきっかけでもあったのかな」

 美仁は言い、いつの間にか空になっていた武雄の湯呑みに緑茶を注ぐ。

「なんかって。知らんの? みい。デキちゃったからに決まってんじゃん」

 あっけらかんとした武雄の態度とは対照的に、美仁は急須を持つ手元が一瞬危うくなるほど驚いた。

「うっそ!」

 溢れそうになったすんでのところできゅっとお茶を切り上げる。

「マジマジ。っつーかそれしか有り得ないじゃんいきなり結婚なんてさ。俺らまだ二十一だぜ? まあ付き合い長いぶん親も公認だったみたいだし、笹やん就職組だし、ずるずるしなくてよかったんじゃないの」

 他人事のように――事実、他人事以外の何物でもないのだが――言い、武雄は「あ、っつーかせっかくだから写真見る? 久々に見たらやっぱ懐かしくて結構面白いぜ」と背負ってきたバックパックに手を入れている。

「あ、うん」

 答えつつも、美仁はまだ衝撃を引きずっていた。自分と同い年の、自分と同じように鈍くさかった友人が結婚するというだけでもそれなりに驚いていたのに、まさかそんなオプションがついてこようとは。

 すげえなあ、笹やん――と思うと同時に少し情けなくもあった。それ以外の感情が湧いてこないからだ。結婚どころか彼女すらいない、生まれてこの方誰とも付き合ったことのない美仁は、武雄のようにあっさりと「よかったんじゃないの」と言えるほど、いま聞いた事実に対する実感がなかった。

 付き合う。結婚する。子供が生まれる。そんなものは、フィクションの世界でしか起こらないイベントなのだと思っていた。大袈裟ではなく。

「ほら、見て。懐かしいだろ」

 こたつ机の上に武雄が写真を並べる。

「この頃のみい、マジで小せえな」

「武雄だって似たようなもんだろ。いまも昔も」

 横目で睨みながら美仁が言うと、武雄も同じように睨み返してくる。

「馬鹿言えよ。いまの俺とお前に何センチの差があると思ってんの」

「五センチだろ。たったの」

「ち、がーう。五・五センチ」

「こまかい男は嫌われるぞ」

 こたつの中で軽く足を蹴ると、やはり武雄も負けじと蹴り返してきた。負けじと、とは言ってもちっとも痛くない。手加減されている、と思うと小さなため息が漏れた。確かに武雄のほうが昔から少し背が高く、少し足が大きく、たぶん力も少し強い。

 美仁は自分と武雄が肩を組んで写っている一枚を手に取ってじっくりと眺めた。どこか自信なげな、おずおずした笑みを浮かべている自分は、確かに女の子のようだ。しかし隣で笑っているやんちゃ坊主の武雄は、クラスメイトたちのように美仁を「女みたい」などとからかったことは一度もなかった。

 武雄は本質的に優しいのだ。その優しさに、気後れしたり情けない気持ちになったり、ほんの少し苛立ったりするのはだから、自分の器の小ささの問題なのだろう。

 一緒にいてくれている、仲よくしてくれている、と、いちいち感じてしまうのは。

「なに、俺が格好よくなったからって驚いてんの?」

 視界に入ってきた指がひょいっと写真を摘み上げた。

 そんなわけないだろ、と言い返そうと振り向いた美仁は、思わず「ぶっ」と噴きだしてしまった。にっと笑った武雄の歯に、小豆の皮がついていたからだ。そんなものをくっつけて「格好よくなった」なんて、盛大な前振りとしか思えない。

「あ? なに、なんだよ」

 突然笑いだした美仁に武雄が眉を顰める。

「なんでもない。カッコいいよ、カッコいい」

 わざと適当な口調で言い、美仁はカーペットにごろんと身体を横たえた。小刻みに震える腹を抱えながら見上げると、天井の木目と四角い電気笠、それから不機嫌そうに自分を覗きこんでいる武雄が視界に入った。この角度からだと、武雄のほっそりした顎のラインが際立って見える――そんなことを頭の片隅で考える。

「なんだよ、おい」

 眉間に皺を寄せて怒っても、口を開けば歯の小豆が目に入る。そのたび、「ぶはっ」と笑ってしまう。笑い続ける美仁に痺れを切らした武雄は、いったんこたつに潜ると、美仁の真横から身体をだした。

「みい! こら!」

 わき腹をくすぐられ、「やめてやめて、カッコいい武雄さま」と息も切れ切れに言う。間抜けな声をだしていると、先ほど感じた情けなさや心許なさが消えていくように感じられた。何年もこんなことを繰り返している。

 武雄はかわっていない。自分と同じように。そう思ってもいいだろうか。あとどれくらい、そう思うことが許されるだろう。

 心配事があったとき、もしかしたら実の兄弟以上に武雄を頼りにしているかもしれない。こんな友達ができるなんて、あの作文を書いていた頃には想像もしなかった。

 眼球がじんわりと湿った。美仁はそれを、笑いすぎたせいだろうと思うことにした。

「……みい? どうし、」

 覆い被さってくる背中に腕を回して引き寄せたのは、笑い疲れたからではなかった。腕に力をこめると、武雄が少しだけ身体を硬くした。

「落ちつくなーと思ってさ」

 胸のあたりがちょうど重なっていた。人間の心臓ってほんとうにどくんどくんって動いてるんだなあ、などとぼんやり思いながら、美仁は武雄の首筋に鼻先を埋めた。美容院みたいなにおいがする。いつだったかそう言ったら、「ワックスかな」と武雄は言った。やや不安げに、「好きじゃない系のにおい?」とも(美仁は笑って首を横に振った)。

「懐かしいや。あのときも、こたつの中でこうやってごろごろしたよなあ、武雄と」

 武雄は無言だったが、ぽん、と軽く後頭部に手が添えられた。その動きで、武雄もあのとき――美仁の祖父母が亡くなったときのことを思いだしたのだとわかった。

「ずーっと、かわんないよな、武雄は」

 普段は忘れようとしていることをあれこれ思いだすのは、春だからだろうか。それとも、子供の頃から知っている友人が結婚するからだろうか。懐かしい写真を見たからかもしれない。美仁は考えながら、武雄の重みを感じていた。

 居間の古い壁掛け時計の秒針が刻む音がひどく大きく聞こえる。その音がなければ、ときが止まっているように感じられるほど静かだ。武雄もずっと無言だった。ときどき、身体に巻きついた腕が微かに動いた。

「って言うか、なんか言ってよ。俺だけ喋ってんじゃん」

 いつまでも抱き合っていることがやや恥ずかしく思われて、照れ笑いをしながら言った。

「みい、それマジで言ってんの」

 答えた武雄の声はでも、予想に反してひどく堅かった。さっきまで一緒に笑っていたはずなのに。

「へ?」武雄の両腕に力がこもる。「え、なに、武雄、」

 浮かせた肩を押さえつけられた。痛いよ、と言えなかったのは、真上にあった武雄の表情に言葉を失ったからだ。

「あの頃から、俺がなにもかわってないって、マジで思ってんの? ただ暇だから、毎週ここにきてるって?」

 傷ついたような、苛立ったような、泣きそうな――とにかく複雑な顔をしていた。親友のはじめて見せる表情に、美仁はぱちぱちと目を瞬かせながら首を捻った。

「なに、」

 怒ってんの、と言おうとした瞬間だった。

 額に、武雄の前髪が触れた。次にまつ毛が触れ、コンマ数秒後に唇が触れ合った。武雄が慣れたようすで顔をわずかに傾けたため、鼻先は――鼻先だけは触れなかった。気付けばでも、身体のあらゆるところがくっついていた。

 安心しきっていた重み。温かさ。におい。脈。

 唇が離れたとき、美仁は瞬きをすることさえ忘れていた。たぶん、触れ合っていた時間自体はそう長いものではなかったのだろう。目の前にある武雄の唇は濡れてもおらず、どちらかというと寒さのせいで乾き気味だった。たったいま起きたことなのに、それが自分の唇に重ねられていたとは信じられないくらい、なんの変哲もなかった。

「ごめん」

 武雄はつぶやき、ゆらりと身体を起こして静かにこたつから這いでた。そばに放ってあったダウンジャケットを掴んで羽織る。確か三年ほど前から着ているものだ。迷彩柄に潜んでいるゴリラ――そのブランドのマークらしい――と目が合ったような錯覚を覚えながら、美仁は遠ざかっていく背中を見つめていた。まるで背中にべったりと接着剤でもついているかのように、仰向けに寝転がった格好のまま動けずにいた。

なにが起きたんだ?

 廊下へと続く襖を開けた武雄が、敷居の上で靴下のつま先を躊躇わせるようにして止まった。

「気持ち悪いだろうけど、思いつきとか冗談でしたんじゃないからな」

 声は遠かった。それが、振り向かなかったせいなのか、それとも声自体のヴォリュームが小さかったのか、美仁にはわからなかった。内容もまた、耳から入ってきはするもののさっぱり理解できなかった。

「俺はずっと、みいとこういうことしたいと思ってた」

 そう言ったあと、武雄は数秒じっと立ち止まっていた。自分の反応を待っていたためだ、ということに美仁が気付いたのは、がらがらと開いた玄関の引き戸が、同じくがらがらと閉まる音を聞いたとき、つまり武雄が碓井家をでていってしまったときだった。

 ――あの頃から、俺がなにもかわってないって……

 ――思いつきとか冗談でしたんじゃ……

 ――俺はずっと、みいとこういうことしたいと……

「はい?」

 

(続きは本編でお楽しみください)