第1章

『花と天使』より


 

 人生でただ一度だけ、一目惚れをしたことがある。初恋だった。馬鹿みたいだ。まぶしくて、太陽みたいな人だと思った。恋をすれば小学生男子も詩人だ。そして馬鹿だ。

 人生で、なんてオーバーな言い方をしたけれど、まだ二十五年しか生きていない。だから二度目三度目があるかもしれないけれど、でも、たぶんないんじゃないかなと思っている。誰かを好きになるなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことは。

 彼について覚えていること。足が速かった。棒切れみたいなひょろひょろの身体つきだった。だけど給食をいつもおかわりしていた。四年生の春に転校してきたのに、その小学校に一年生の頃から通っている俺よりもずっとクラスに馴染んでいた。笑うと目が糸みたいに細くなり、がばっと開いた大きな口から覗く歯には、銀色の矯正器具がついていた。

 なにより印象に残っているのは髪型のことだ。彼の髪は癖がなく、光があたると輪っかができるくらい艶やかで綺麗だったのだけれど、前髪は定規をあてて切ったみたいに揃っていたし、後ろはひどく適当な刈り上げで、はっきり言って間抜けだった。あとから人伝に聞いた話だと、新学期が始まる前日、お姉さんに無理矢理切られたのだそうだ。一駅先の中学校に通っているという、実の姉。つまり、なんの心得もない――あるとしたら悪戯心くらいだろう――姉の美容師ごっこの生贄になったということだ。

 でもそんなおかっぱ頭の彼に、俺は一目で恋に落ちた。新学期、友達らしい友達のいないクラスの、滑りの悪いドアを開けた瞬間。その笑顔が目に飛びこんできた瞬間。心臓を、なにかで殴られたみたいに。一撃。

 ところで、勘のいい人はもう気付いているかもしれないけれど、〝俺〟が一目で恋に落ちたのは〝彼〟だった。

 まあ、そういうこと。

 

   *

 

 ここは坂の多い町だ。

 静かな住宅地の三差路の一つを曲がると、ほかの家々に比べてやや小ぢんまりした一軒家がひょっこり現れる。屋根も壁もドアも白い。天気のいい日は、軒先に置かれた観葉植物のさえざえとした緑色がよく映える。

 でこぼこと表面の波打ったガラスが嵌めこまれたドアには、“fleur et ange”と書かれた看板がわりの木の札がつるされている。読み方は、フルール・エ・アンジュ。フランスかぶれのこの店のオーナーがつけた名前で、フランス語で〝花と天使〟という意味らしい。

 洋菓子店の経営が子供の頃からの夢だったというオーナーは、やたらとフランスの食べ物や地理に詳しい。聞けば、フランス語も少し話せるそうだ。『フランス語で綴る愛の言葉』という本を目の前で広げられたときは、なにか突っこみを入れたほうがいいのか真剣に悩んだ。結局黙っていたけれど。

 しかしそれほど大好きなフランスに、オーナーは一度もいったことがない。極度の高所恐怖症であり、軽い閉所恐怖症なのだ。片道十時間以上を雲の上で過ごすなんて、ほとんど不可能に近い。本人にとっては大変な(そして残念な)ことだろうが、なんだか間抜けだ。

 はっきりさせておきたいのは、彼のことを間抜けだと思ってはいても、嫌いではないということ。ハンプティ・ダンプティの一歩手前みたいな出っ張った腹で、フランスかぶれなのにイタリア人の「ちょい悪オヤジ」ファッションに憧れていて、ショッキングピンクの「ワントーンコーデ」に挑戦しようとしているところなんかも、愛嬌があっていい、と言えなくもない。いい人なのだ。

 間抜けというのは、いい人の必須条件だと思う。それに加えて愛嬌まであるのだから言うことなしだ。

 ずっと夢に見ていた大事な洋菓子店にもかかわらず、俺みたいな調理師免許も持っていない人間をパティシエとして雇ってくれた。引き抜きの話を貰ったとき、「どうして俺なんですか」と訊ねたら、「深海(しんかい)くんの作るケーキは美味しいから」という答えが返ってきた。あまりにシンプルな答えなのではじめは拍子抜けした。馬鹿にされているのだろうか、と思ったし、金でも騙し取るつもりなのかもしれない、とも思った。いまは、これは口癖みたいなもんなんだな、と思っている。

「いやあ、ほんとうに、深海くんの作るケーキは美味しいよねえ」どの試作品を食べてもそう言うのだから、口癖と言っていいだろう。

 いちおう言われるたび、「ありがとうございます」と頭を下げる。試作の意味がない、とは思うものの、にこにこ頷いているまるい顔を見ていると礼を言うしかない気がする。それから、ハンプティ・ダンプティでなく五十代のダンディな雇い主であれば恋に落ちる可能性もなくはないんだけどとか思ってしまう。

 いや、可能性がないから心穏やかに働いていられるんだろ、と、そのたび自分に言い聞かせる。

 

 

 朝、フルール・エ・アンジュの鍵を一番に開けるのは俺だ。小さな店なので従業員は全部で三人で、パティシエは俺しかいない。ホールスタッフはオーナーともう一人、大学生のアルバイトがいる。

 薬剤師になるための大学に通っている女の子で、黒くて太い髪を一つに纏めた、さえない感じの子だ。小動物みたいにびくびくしているかと思えば、「深海さんみたいな人にはわたしの気持ちなんてわかりませんよ」と、妙に攻撃的な口調で言ってきたりする。どうやら嫌われているらしい。

 彼女の言う「深海さんみたいな人」というのがどういう人なのかはわからないけれど、「きみみたいな子に俺の気持ちなんてわからないよ」って言い返してやったらどうなるだろう、と思う。もちろん思うだけで実際には言わない。職場には金を稼ぐためにきているのであって、同僚と必要以上のコミュニケーションを取る気はない。嫌われている? 大いに結構。

 一人暮らしのアパートから店までは、駅を真ん中に挟んで徒歩約二十分かかる。アパートをでるのは七時四十分と決めているが、いつも四十三分になる。どうしてだろうと不思議になるけれど、そういえば家が近いやつのほうがよく学校に遅刻してきたな、なんてふと思いだす。そういうものなんだろう。

 この店のいいところは、ほかの洋菓子店に比べると開店時間が遅いことだ。一人きりで好きなように開店準備ができるというのもいい。

 朝の仕込みの時間が好きだ。正直、客がやってくる時間よりずっと楽しいし、自分の家にいるときよりリラックスしているかもしれない。触ると夏でもひんやりしているステンレスのキッチン。よく磨かれた――もちろん俺が磨いた――鍋や包丁、カトラリー、白を基調とした美しい皿やカップ。自分の背丈以上ある銀色の冷蔵庫を開ければ、その日のやるべきことがそこに詰まっている。

 たとえば、だ。付き合っていたつもりもない男に「浮気をした」と一方的に責められて、面倒なやり取りの末に頭から酒をぶっかけられて帰宅した日があるとする。そういう朝も、しっとりしたつめたいクッキー素地を切って天板に並べていれば、酒とともに浴びた言葉を思いださずに済む。シューを綺麗に焼き上げることに意識を使っていれば、声も顔も、どんなセックスをする男だったのかも、すっかり忘れてしまえる。もちろんたとえばの話だ。仕込みの時間には、消炎作用がある。心が凪ぐ。

 甘いものが特別好きなわけでも、オーナーのようにフランスに興味があるわけでもない。有名店で働きたいとか、いつかは自分で店をだしたいとか、そういう夢みたいなものもない。

 ただ、一人でなにかを黙々とするのが好きなのだ。工場で一人黙々と働くよりも、洋菓子店で一人黙々と働くほうが性に合っている。それだけの話だ。

 

 

 だけど、穏やかな生活なんてそう長くは続かない。ささやかな幸せは壊されるために存在するらしい。その日大袈裟でなくそう思った。

 いつも通り七時四十分頃に家をでた。わざわざ確認はしなかったけれどたぶん七時四十三分だっただろう。足早に駅に向かうスーツ姿のサラリーマンに紛れて十分ほど歩き、モノトーンの人々がいきかう改札を横目に、今度はサラリーマンに逆らうように歩く。

 店の前に辿りつくと、男が一人立っていた。

 まだ裏返してある札――“close”と書いてある。ここはフランス語ではない――が掛かったドアにもたれかかるようにして。

 痩せた、白い肌の男だ。艶やかな髪は黒く、前髪の長さに比べると襟足とサイドは短く刈りこまれている。ちらりと覗く耳のかたちは悪くない。鼻が高く、顔にも身体にもおよそ余分な肉がついていない。嫌味のない顔立ちだな、と思った。決して派手ではないけれど骨格そのものが綺麗だ、とも。

 対照的だったのは服装で、男は白地に青い星柄という奇抜なスタジャンを羽織っていた。あちこち破けたひどく細い黒のパンツと、不釣り合いな大きさの真っ赤なスニーカーを履いている。青・白・赤。ちょうどフランス国旗だ(なんて)。

 控えめに言えば個性的なスタイル、正直に言えば俺なら百遍生まれかわったってしない格好だ。歳は同じくらいに見えた。

関わり合いにならないほうがよさそう――と思うと同時に、頭のどこかから声が聞こえてくる。

 じゃあ深海秋彦(しんかいあきひこ)。この奇妙な格好をした男に、お前は全然興味がないんだな? こんな男とはもちろんセックスできないって言うんだな? YES? or――

「NOだ」

 心の声が思わず漏れた。いや、それはNOだね、と。恋に落ちたなんていうロマンチックなものじゃなく、単純にどんぴしゃで好みのタイプだったのだ。

 男は店の前を通るサラリーマンやOLを見ていた。見ていたというよりは景色として捉えていたという感じだったけれど、スカートの短い大学生ふうの女の子が通ったときだけは、ちゃんと目玉が動いていた。

 その目玉は自然な動きで俺を捉えた。髪もまつ毛も真っ黒なのに、瞳だけは、入れたばかりの熱い紅茶みたいな濃い茶色だった。

「あ、ここの店の人すか」

 少し鼻にかかる、軽い感じの声だった。人を見ると反射的に笑う癖でもあるのか、きゅっと口角が上がり、開いた口元から白い歯が覗いた。歯並びも綺麗だった。

 心臓が反応したのはそのときだった。どすっと、なにか重いもので殴られたような感じ。好みのタイプ、と思ったときとは違う、好意というより危険信号にも近いなにかが心臓を打っていた。

「そうですけど……」なにか嫌な感じがする。答える俺の声には無意識に警戒の色が滲んだ。「……けど、すみません。うちは十一時オープンなんです」

 鍵を開けようとすると、ドアにもたれかかっている男と必然的に並ぶ格好になった。身長も似たようなものだったけれど、俺より細いかもしれない。ついこの間まで付き合っていた男が筋肉自慢の体力馬鹿だったせいか、やや細すぎるようにも思えた。

 筋肉自慢、という単語とともに、すっかり忘れていたその人が頭に浮かんだ。なにを血迷ってあんな男と付き合っていたんだろう。休日の朝七時に起きてスポーツジムにいく、真冬でも色黒の、唯一持っているレコードはABBAでプロ野球をこよなく愛する男と。断るのが面倒だったと言えばそれだけのような気もする。好きだ好きだ好きだって、あんまり言うから。

「ああ、そうじゃなくてこれ。これこれ」

 元恋人とはあらゆる面で正反対にも見える男は、指の背でこつこつとドアを打った。そこには、見覚えのないA4サイズの紙が貼りつけてあった。

『急募! ウェイター・ウェイトレス、年齢、性別、経験不問、土日祝日働ける方』

 黒い筆ペンで書かれた、洋菓子店のドアに貼るには達筆すぎる文字。

「……へ?」

 見覚えのある筆跡に、思わずぱかっと口が開いた。紛れもなくオーナーの字だ。だけど新しいアルバイトを雇おうと思っているなんてちっとも聞いていなかったし、うちの店にそんな余裕があるとも思えない。

「バイト、募集してるんですよね?」

「……書いてあるからには、そうなんだろうと思います」

 自分でも変な答えだとは思ったが、こっちだって初耳なのだ。

 男は一瞬だけ眉を顰めて不思議そうな顔をしたけれど、またすぐに笑顔になった。なんだかまぶしい感じのする笑い方だった。ちょっと見ていられないような、それでいてずっと見ていたいような。気がつくと、手のひらがじんわり湿っていた。緊張している。なぜ?

「店、入らないんですか?」

 男の指が店のドアノブを示した。骨張った感じのするずいぶんと長い指で、男らしいかたちのせいか、それに似合わぬ肌の白さが余計に目立った。

「入りますけど」なるべく素っ気なく響くよう短く答える。「俺は入りますけど、店は十一時からで、オーナーは午後二時頃にならないとこないと思います」

 ジーンズのポケットから鍵を取りだす。「はあ。なるほど」という力の抜けた、俺が言葉に含ませた棘にちっとも気付いていない声を背中で聞きながら。

 勘弁してくれよ、と心の中でため息をついた。二人掛けのテーブルが三席しかないこの小さな店に、ホールスタッフは三人も必要ないはずだ。間抜けで愛嬌のあるオーナーと、さえない小動物のような女の子というちぐはぐな従業員だからこそ、平和に働いていられるんじゃないか。

 そりゃあちょっと、いやかなり好みのタイプではある。だけど、だからこそ、この男にここで働いてほしくない。なんとなく嫌な予感がするのだ。

「すげえ可愛いキーホルダー」

 男の視線は、ドアノブに刺さった鍵にぶらさがっているキーホルダーに注がれていた。フランス菓子のマカロンを模したモチーフが呑気に揺れている。神に誓って俺の趣味ではない。オーナーに渡されたときからついていたものだ。本物と見紛うくらい精巧に作られているそれは、淡いピンクの素地に白いクリームがうすく挟んである。

 声には揶揄が含まれていた。男の言葉を無視して、鍵を回して店に入った。

 さっさと準備をしよう。オーナーがくるまで店は一人で回さなければならない(大学生の女の子は週に二回ほどしかこない)。こんなところで朝の貴重な時間をロスするわけには――

 振り返ってぎょっとした。男が、当たり前のように俺の後ろをついて入ってきていたのだ。

 小さな店の中をぐるりと見渡し、ふむ、という感じで息をつく。ほんとうに小さい店なので、ちょっと首を動かすだけで全体が把握できてしまう。

「あの」

 素っ気なさに苛立ちを足して言った。いくらタイプでも、ペースを――穏やかな時間と生活を――乱されるのはごめんだ。

「はい?」

「だから、さっきも言った通りオーナーは午後からしかこないんです。バイトの話は、俺じゃどうしようもないんですけど」

 というわけでさっさとお帰りください。言葉にはしなかったが、その気持ちを隠そうという気はなかった。

 男はテーブルに浅く腰を掛けた。脚の部分がわざと木の枝を模したような歪なつくりになっている、木製のテーブル。オーナーの知り合いの建築家が趣味で作ったらしく、一つとして同じものは存在しない。フルール・エ・アンジュに置いてある家具や食器は基本的にそうした一点ものが多い。地味に金のかかっている店なのだ(それに比例した売り上げがあれば言うことなしなのだろうが、世の中そう上手くはいかない)。

 ふーっ、と、男はわざとらしく息を吐いた。

「お前さあ」

 お前?

 腕を組み、ほんの少し首を傾けて俺を覗きこんでくる。上目遣いなんて言えるような可愛いものではない。値踏みされているような、なんとも気分の悪い感じだ。

「お前……って、失礼だろあんた。初対面の人間に」

 咄嗟に言ったが、初対面でなくとも「お前」なんて呼ばれるのは不愉快だった。

 不愉快で、それなのになんだ。

 なんだ、目が離せないこの感じは。

「マジに、なんも思いださねえの」

 男は、口の端を上げてちょっと意地悪っぽい笑みを浮かべた。

「……は?」

「シンカイだろ? お前。深海秋彦」

 

 

 初恋の彼と言葉を交わしたのは、たったの一度だけだ。

 俺は一人ぼっちで、教室の後ろに新しく貼りだされた習字をぼうっと眺めていた。

 練習課題は、〝夕焼け〟だった。壁一面に並ぶさまざまなかたちの〝夕焼け〟の文字が、なんだかとても不気味に見えた。

 習字は嫌いな授業の一つだった。顔もよく知らない〝近所のお兄さん〟のおさがりの習字かばんはうす汚れていてみすぼらしく、それを持って登校するのが嫌だった。墨で手が汚れたりするのも、筆に墨を染みこませすぎると半紙がふやふやになってしまうのも、もの悲しくて嫌だった。

 それから、自分の名前を書くのが憂鬱だった。深海秋彦。総画数三十八画。名前用の細い筆で書いてもダンゴ状態になってしまう。もともと、字を書くのは苦手なのだ。

 ――シンカイ……

 突っ立って途方に暮れていた俺は、後ろから突然呼ばれたことに驚いて振り返った。

 記憶はずいぶんあやふやになっていて、どうして一人きりで教室にいたのか、どうして彼が現れたのか、一体何時くらいの出来事だったのか……そういう具体的なことがすっぽり抜けている。もしかしたら半分くらいは俺の頭の中で都合よく塗り替えられているかもしれない。なんたって、初恋の彼との唯一の思い出なのだ。

 ――……なに?

 小さな声で訊ねた。

 彼はでも、俺ではなく俺の習字をじっと見つめていた。小さな鼻と、痩せた頬と、よく見るとぽってりと赤い唇。横顔をそんなふうに近い距離から見るのははじめてだった。まつ毛のカーブ。どきどきしていた。

 ――シンカイ、アキヒコ。

 俺は黙っていた。

 ――秋なの? 誕生日。

 彼は言った。じっと、俺の書いた下手くそな〝夕焼け〟を見ながら。

 答えようというより、なにか言わなければと思って唇を開いた。唇も喉も、まるで言葉を発するのは百年ぶりかと思うほどひどく乾いていた。彼がこちらを振り向くのが気配でわかって、咄嗟に俯いた。

 ――ちが、う。

 ふうん、と彼は言った。質問の続きを期待したけれど―じゃあどうして秋彦なの? という―、彼はもうなにも訊かなかった。顔を伏せてしまったことを後悔した。振り向いた彼とちゃんと目を合わせていたら、もっとたくさん話せたかもしれないのにって。そのときはそう思った。だけどいまはわかっている。もしやりなおせたとしても、俺はきっとその目を見られないということが。

 言葉を交わしたのも、名前を呼ばれたのも、その一度きりだった。

 

 

「……リョーゴク?」

 奥の厨房や、ほかのテーブルに視線を巡らせていた男は、俺の小さな声に振り返った。声は、少し掠れていた。

 そのときの感じを、上手く説明することができない。

 男は久しぶりに会ったとても親しい友人に向けるような、懐っこい笑みを浮かべた。濃い茶色の瞳が細くなる。横に開かれた口元から、白い歯が覗く。もう銀色の矯正器具はついていない。

「ビンゴ」

 悪戯っぽい笑い方だった。意地悪っぽかったり懐っこかったり、笑顔のバリエーションがずいぶん豊かだ。

 ほんとうに、遼谷誠(りょうごくまこと)だというのか。小学校四年生のときに引っ越してきた、おかっぱ頭の元気な男の子が、俺の目の前にいる男なのか。

 彼なのか。

 遼谷はテーブルから腰を上げると、「なんか手伝うことある?」と言って厨房に続くドアに手を掛けた。まるでずっとここで働いているかのような、自然な動作だった。

「ケーキ屋って思ったより準備遅いんだな。パン屋みたいに朝の五時とか六時とかからやんのかなって、」

「お前、ほんとうに遼谷?」

 背中を追いながら遮るように問いかけた。ほんとうなら厨房には誰も入れたくなかったが、このときはそんなことを考えている余裕がなかった。

 星柄のスタジャンの背中が痩せているわりには広く感じられて、更に混乱した。おかっぱ頭の遼谷が、この妙な格好をした男なのだろうか。

 心の中で何度も問いかけた。そしてそれは、混乱を鎮めるための無駄な行いに過ぎなかった。

 答えはでていた。はじめからわかっていたのだ。

 笑うと細くなる目。

 大きな口と、それが開いたときの白い歯。

 それから――それから、この感じ。殴られたような、この一撃。

 遼谷は振り返ると、顎を上向きにしてわざと挑戦的に笑った。記憶と現実が雑ざり合って頭がぼうっとする。小学生の遼谷は、こんな笑い方をしただろうか。

 たじろいで一歩後ろに下がると、その一歩を詰めるように手首を取られた。驚いて声もだせずにいる俺に、遼谷が囁く。

「ほんとだよ」

 人生でただ一度だけ、一目惚れをしたことがある。

 初恋だった。

 言葉を交わしたことは一度きりしかなく、

 目を合わせたことは一度もない。

 だからこれは、もしかしたら、人生で二度目の。

「ほんとうに、遼谷だよ。深海」

 少年みたいな屈託のない笑顔を向けられて、それが深く身体を貫いた。もう一撃なんかじゃ済まない。

 忙しなく暴れる左胸を無意識に押さえる。

 ということは、つまり、そういうこと?