*1* 明

『ビューティフル・ライフ』より


   *1* 明

 

 身体が水の中に沈んでゆく。このままだと死ぬかもしれないと思う。そのばかばかしい考えにくすくす笑い出したいのに身体が動かない。海(かい)はそこで、ああ、ほんとうに、幸福というのはこういう事を言うのかもしれないと思った。もしも死ぬのなら一体誰に会いたいだろうと考えてみる。すると不思議な事に誰の顔もはっきりとは思い浮かばない。愛していたのにと思った瞬間、海はひどい罪悪感を覚える。愛していたし愛されていた……そうだろ? と自分に問うてみる。答えは返ってこない。

 死ぬべきなのかもしれない。この、偽りの幸せの中で。

 

 

 常に自分より遅く帰宅する同居人の革靴が玄関の三和土にあった。オーダーで作ったというエドワード・グリーンの革靴は磨かれていて美しい。しかし新品というのではなく、丁寧に履き古された味も出ている。靴の持ち主そのもののような高級感と落ち着きを醸し出していると言っても言い過ぎではない。

 明(あきら)が違和感を覚えたのはでも、幸仁(ゆきひと)が日付が変わる前に帰ってきたというそれ自体ではなかった。幸仁が脱いだ靴をそのまま玄関に出しておく事など、一度も、すくなくとも一緒に暮らし始めてからは一度もない。シューズボックスから室内履きを出し、それと入れ替えにその日履いていたものを仕舞うからだ。

 明は首を軽く捻った。最近染めなおしたばかりの金色に近い茶髪が揺れる。だが、どういう理由でこれが出ているのかはべつにして、幸仁の顔をゆっくり見るのは久しぶりの事だ。明はじわじわと嬉しくなってくる気持ちが声に滲まないように小さな咳払いをして、リビングに続くドアを開けた。向かって右側に大型の液晶テレビがあり、その正面にソファが置いてある。身長百八十三センチの幸仁が寝転んでも足がはみ出ない大きなソファだ。

「おかえり明」

 幸仁は明を振り向き微笑んだ。

……なに、それ」

 口を「ただいま」の「た」のかたちにしていた明は一瞬言葉に詰まった。ソファの上に見知らぬ男が眠っていたのだ。幸仁の腿を枕にして、身体をきゅっと丸めている。

「ああ。マンションの前で拾ったんだよ」

「拾った……?

「眠ってしまっているけど、見るかい? すごく可愛いんだよ」

 ちっとも状況が飲みこめない中、明が思っていたのは、しかしいつ見ても幸仁の笑顔は昭和の映画スターみたいだなあ、という事だった。きりりとした太い眉と二重瞼の大きな瞳。鼻は欧米人にも負けないくらい高く、知的な印象を与えるうすい唇を開くと胡散臭いくらい白い歯が零れる。百人中百人が、「整っている」と感じるであろう幸仁の顔の造りは、整いすぎているからか、濃いなー、と明には感じられる。

「拾ったってなに? そいつ誰?

 幸仁は一瞬、訊かれた事が理解できないとでも言うように首を傾げた。傾げたいのはこっちだと明は思う。卒業生が政治家になったり医者になったり国際弁護士になったりする大学を出ているにもかかわらず、幸仁はときどきとても抜けている。それがでも、幸仁の魅力でもある。

「誰なんだろう。わからないけど」

 幸仁の笑顔は、音で表すなら〝にっこり〟がぴったり当てはまる。〝にっこり〟というフキダシでもつけてやりたいくらいだ。ただその笑顔があまりにも明るく清潔で、ときおり神々しさすら感じさせるので、幸仁に微笑みを向けられた相手は老若男女問わずつられて笑ってしまう。明ももちろんそのうちの一人だ。

(誰なんだろうじゃねえよ。意味、わかんねえ)

 心の中ではそう思うのに、顔はつられて笑っていた。

「すごく可愛いから、明も早く見てごらん」

 珍しく高揚した声を出す幸仁に、明は答える事もその場から動く事もできなかった。静まり返った部屋を、見知らぬ男のささやかで規則正しい寝息が満たしていた。小動物のような寝息だと明は思った。

 

 

 いまの店で勤め出して、もう五年になる。服が好き、人と話をするのも好き、なにより自分の好きな髪色や髪型にしていられるし、とにかく派手で楽しそう。そんな軽い気持ちでこの業界に飛びこんだ若い自分を思い出すと、自然と苦笑いをしてしまう。理想と現実のギャップに打ちのめされながら、洋服の販売員としてがむしゃらに働いて九年が過ぎた。

 販売の仕事はやればやるほどに難しい。一見すると派手で華やかだが、入荷した大量の商品を梱包から出して店に並べるのは力仕事だし、在庫の確認や管理、備品の発注、顧客へのダイレクトメールの発送など、細かくて地味な仕事も多い。

 いま働いている店はデニム商品を中心としたカジュアルなブランドだ。だが、本店、工場共にイタリアにある事や、素材へのこだわりはもちろん、デザイナーや職人を各国から集めている事もあって価格はそれなりに高価である。

 ものを売るというのは、すなわち対話をする事だ。この店にやってきて、明はそれを身に染みて学んだ。いくら商品知識があっても、センスのいい着こなしができても、客と対話できなければものを売る事はできない。それは高価な商品になればなるほど――と言うより、高価な商品を好む客になればなるほど顕著だった。

「明君と話してるといつの間にか買っちゃうんだよね」そう言って困った顔を作る顧客を見ると、明は得も言われぬ満足を感じる。驕ってはいけない、もっと頑張らなくてはいけないと思いはするが、ときどきは、「何気ない話の中に技をきかせてるんだぜ」と自慢したりもする。もちろん、心の中だけでだ。

「せんぱあい」

 なんとも緊張感のない声がして、明は在庫管理表から顔を上げた。入社三ヶ月の大学生アルバイトがにこにこしながら立っている。見上げる格好になったのは、明がストックの棚を確認するためにしゃがみこんでいたからだ。

「なに」

「せんぱいってぇ、ペットとか飼ってます?

 自分より八つも年上の先輩がしゃがみこんで仕事をしているのに、よくもまあそんな事を笑顔で訊けるものだなと感心する。昔の自分なら、「くだらねえ事言ってる暇あったら一万でも二万でも売り上げ伸ばしてこいよ」くらい言っただろうが、九年も経てば、育てる事が重要かつ物凄く難しい仕事だとわからないわけではなかった。

 最近の若者はとにかく叱られ慣れていない。よかれと思ってした注意を、「明さんにいびられた」なんて言われる事もすくなくはない。若者はデリケートだ。どんなくだらない話でもとりあえず「うんうん」と聞いてやり、ときどきは共感し、褒めるところは大袈裟に褒めて伸ばす。疲れるけれど、それがいまのところ上手く行っているやり方だった。

「ペット? 飼ってねえな。実家には犬が居るけど――あ」

「〝あ〟? なんですか?

「いや、なんでもない。ほら、もうすぐ閉店なんだから、レジ締め手伝ってこいよ」

「はあーい」という間延びした返事の後に、「今日も超疲れましたねえ」と言われて更に力が抜けた。

(疲れるほど仕事してないだろうが)

 明が思っていると、「でも、うち帰ったらほっとできますよね」と若者が邪気のない笑顔で振り返った。明は眉を顰めたが、レジのそばに居た店長に大声で呼びつけられた若者がそれに気付く事はなかった。

「あ」と言った瞬間明の脳裏に浮かんだのは、能天気な男の笑顔だった。ペットという単語を聞いて思い浮かべるのもどうかと思うが、血縁でも友人でもないあの男を一体なんだと思えばいいのかわからないし、実際男の生活ぶりはペットとさほど変わらないように思われた。

 暗証番号を押して自動ドアを通り、高級ホテルさながらのエントランスに常駐している管理人に軽く頭を下げる。「お帰りなさいませ」と微笑まれ、職業柄と言うよりは感情の読み取れないその微笑みにつられるかたちで明も笑う。幸仁が所有するこの高級マンションに住み始めたのは、明がいまの店に勤め出してからだ。だから管理人ともいちおう五年近くの付き合いになるのだが、いまだに慣れない。

「今日も居るんだろうな……

 うちのドアにカードキーを差しこみながら出たひとりごとは人気のない廊下にぽつんと響いた。ため息と同時にドアを開くと、真正面に見えるリビングに続くドアが開いていた。開いたドアから漏れた冷気が廊下の壁までかちかちに冷やしている。シューズボックスにエドワード・グリーンの革靴はなく、だから冷気に侵されたこのうちに居るのが幸仁でないというのはわかっていた。そもそも、幸仁はあまり冷房を好まない。

 大型の液晶テレビには、流行りのオネエ系タレントが食事をする場面がアップになって映っていた。リビングに入った瞬間に顔を顰めてしまうくらいの音量で、「おーいしーーい!」と聞こえてきて、明は素早くリモコンで電源をオフにする。どんな番組でも、観ているのならばこんな勝手な事はしない。一言、「消してもいいか」と訊ねるし、そうでなくても音量を下げるくらいに止めるだろう。きちんと、観ているのならば。液晶テレビをつけ、エアコンの冷房の温度を二十一度に設定した犯人は、ソファの上で手足を丸めて眠っている。

……んぅー……

 明がどさっと荷物を置いたのは、その無神経な安眠を妨害してやろうという思いからだった。それなのに、男が起きた事がわかるとぎくっとした。男はソファの上でゆっくり身体を起こすと、長袖の先を引っ張って目元を擦った。やわらかそうな茶色の髪があちこちの方向に跳ねている。

……おかえりなさい」

 襟ぐりの広いカットソーがだらしなく片寄っている。むきだしになった肩をぽりぽりとかきながら男は言った。長袖を着るのなら冷房をつけるな、と明は思う。男の着ている服はすべて幸仁が用意したもので、だからたぶん物凄く高価だ。観ないならテレビを消せ、と明は思う。でも結局なにも言えない。幸仁が連れてきた――拾ってきた――男だからだ。

「ねえ」

 むっつりと黙っている明のようすに男は不思議そうに首を傾ける。ゆっくりと瞬きをすると、「おかえりなさいってば」と言い、ふうわりと微笑んだ。印象的な黒目が三日月形になる。一瞬絡んだ視線を明はすぐに外した。目が合うだけで胸がむかむかした。

「きょうも、かっこういいねえ。服屋さんだもんね」

……べつに」

 明はあからさまに嫌そうな声を出したが、男はそんな明をちっとも気に止めるようすもなくもう一度ふうわりと笑った。

「ねえ、おかえりなさいってば」

 ただいまと言わなければ一生この「ねえ」を聞かされるのだろうかと明は思い、「ただいま」と投げるように言った。これ以上の会話は望まない、という声だった。

 それでも、男――海は、歯を見せて笑った。

 

 

 幸仁は完璧すぎる笑顔で海を「拾った」と言った。それから、犬や猫を指して言うように、「すごく可愛いから早く見てごらん」と。

 リビングのドア付近にずっと立っていた明は、信じられない事が起きたときや緊張しているときの癖である仏頂面で恐る恐るソファに近づいた。

「顔、見えねえし」

 海は――このときはまだ、明はその名を知らなかったわけだが――、すっかり安心しきった犬のように、幸仁の腹のあたりに顔を寄せて眠っていた。口元で丸めた拳に、赤く擦りむけた跡がたくさんあった。ひときわ大きな傷は倦んでおり、じゅくじゅくと痛々しげだ。血に弱い明は一瞬身震いをした。

「痛そう。怪我してるじゃん」

「そうなんだよ」

 明が言うと、幸仁はオーバーに眉を下げた。この顔を見ると明はいつも「Oh! my God!」って感じ、と思う。本人は真剣なのだろうが、幸仁のリアクションは常々オーバーでちょっと可笑しい。生まれてから小学校を卒業するまでをアメリカで過ごしたらしいが、それが関係しているのだろうか。

「手当をしてあげたいんだけど、薬の場所がわからなくて」

 しょんぼりと肩を落とす幸仁に、明は結局笑ってしまう。幸仁は、薬の場所も食器の場所もクリーニングに出したワイシャツがいつ返ってくるのかも、明に訊かねばわからない。リビングの隅に置いてあるキャビネットの一番下から消毒液とガーゼと包帯を出し、明はソファのそばにぺたりと座りこんだ。

「あ、服」

 そこで初めて、海が着ている服が自分のものである事に気付いた。気に入りのスポーツブランドのジャージのセットアップだ。

「ああ、悪い。乾燥機に入ってたのを借りたんだ。俺のだとサイズが合わなくて。勝手にごめん」

 明がむっとしたのは洋服を勝手に持ち出されたからでなく、〝サイズが合わなくて〟の部分にだ。確かに幸仁と自分では手足の長さが違うけれど……と複雑な心境になる。

「べつにいいけど。こんなん寝巻きみたいなもんだし」

 呟きながら、明はそっと海の手を取った。温かく湿った、子供のような手だった。

(ほんとだ。……可愛いや)

 それが、海の顔を見た素直な感想だった。明はそう思ってから、その考えを打ち消すべくふるふると首を横に振った。「明?」と幸仁が訊ねたが、なんとなく後ろめたくて聞こえなかったふりをした。

 卵型のつるりとした顔の中に、計算しつくされたようにすべてのパーツが収まっていた。かたちの整った豊かな眉と、高いけれど上品な鼻。唇はやわらかな桃色だ。呼吸のたびに細かく震えるまつ毛を見ながら、バイトの女の子より長い、と明は思う。五人居るアルバイトの女の子は銘々つけまつ毛やまつ毛エクステをして量や長さを出す努力をしているが、海のびっしり生えた長いまつ毛を見ると人工的なものと天然のものではこうも違うのかと感じざるを得ない。

 呼吸はあるので確実に生きているのだが、傷口に消毒液をつけても包帯を巻いてもちっとも起きる気配を見せない海は人形のようだ。

「できた。っつーか死んでんのかと思うくらい動かねえな」

 包帯を巻き終え、海の手をそっと胸の上に戻す。乱暴なものの言い方をしても、動作のひとつひとつが丁寧で優しいところが明の魅力だ。

「ありがとう明。助かった」

 左右対称の微笑みを向けられ、明は、「ジーザス」と言いながら両手を合わせて拝みたい気分になった。というのは冗談だが、このときの幸仁の微笑みはそれくらい眩しく、尊さすら感じられた。

「べつに。こんくらい」

 大した事じゃないけど、とひとりごとのように呟きながら、明は幸仁の大きな手が海の髪の表面を静かに撫でるのを見ていた。幸仁は確かに優しい。来る者にも去る者にも平等に優しい。ただ、その平等さが明の目にはときどきとてもつめたく、寂しい事のように映る。誰にでも優しいというのは、優しくする対象が誰であっても幸仁には関係ないという事なのではないか。

 でも今回はなにかが違う、と明は思った。ほとんど本能的に。

(なんか、ヤな感じ)

 完璧な芸術作品のような友人の横顔と、その膝枕で眠る得体の知れない、そしてこれまたとびきり美しい男を見ながら、明は妙なざわつきを感じていた。

 

 

 幸仁が海を拾ってきた日から三日が経っていた。

 なにが気に食わないのかと訊かれたら、と明は思う。なにが気に食わないのかと訊かれたら、たぶん海があまりにも自然にこのうちの中で生活をしている事の不自然さが気に食わないのだ、と。

 ゆうべ、「サイトウくんがね」と海が言った。自宅の固定電話で、まだ会社に居るらしい幸仁と話をしていたときだ。海の声は決して大きくはないが、明はちょうどキッチンに居たので聞こえたのだ。明としては、聞こえてしまったと表現したいところである。

「サイトウくんがね、ユキヒトのネクタイの柄を褒めてたよ。濃いみどりのしま模様のやつのこと」

 〝サイトウくん〟が二日に一度くるクリーニング屋の若い男だという事は、海の言葉の端々からわかった。確かにこの二年ほど、引取りにも引渡しにも同じ男がやってくるが、男の名前など明も幸仁も知らなかった。やってきて三日の海がそれを知っているというのは明には妙に思われた。幸仁は一体、海をどうするつもりなのだろう。明は思い、銀色の冷蔵庫の扉をいささか乱暴に開いた。

(どうするって、べつに、どうしようもないけどさ)

 飲み物ばかり入れてある左側のポケットから牛乳パックを掴み出すと、直接口をつけてごくごくと飲む。お世辞にも行儀がいいとは言えない明の行動を、幸仁はいつも、「明らしい」と言う。パックに直接口をつける事。幸仁の前で大あくびをする事。虫刺されの痕に爪でバツ印をつける事……、「明らしい」と言って、幸仁はいかにも幸福そうに笑う。

「ねえ」

「ぅわ!

 いつの間にか肩の触れ合う距離に海がきていて、明は驚いて飛び退いた。手に持っていた牛乳が、パックの中でちゃぽんと揺れる。

「ねえ、おなか、すいたね」

 にこ、と海が笑う。昔読んだ絵本に出てきた王子様に似ているなと明は思う。純粋で清潔そうで、人間らしさが感じられなくて、明はあまり好きではなかった。

「なにも食ってねえの?

 時刻は夜の十一時をまわっている。

「うん」

 こくり、と首を縦に動かす海は、もう王子様のようではなかった。単純な動きが妙に子供っぽい。子供というよりは、ペットっぽい。腹をすかせているならなおさらだと明は思った。だから今日、職場の若者にペットを飼っているかと訊ねられたとき、この顔が浮かんだのだろう。

「あさね、ふたりが出て行ってから、なにも食べてない」

「はあ? なんで。腹減ってるならなんでも好きに食えばいいじゃん。冷蔵庫にも色々あるし、幸仁に金だって貰ってんだろ?

 一息に言ってから、明は、はっとした。金を貰っているなんて、ペットどころか愛人だ。だが、不躾だったかもしれないと気まずくなったのは明だけで、海の表情は変わらなかった。

「だってひとりだとおいしくない」

 平らな腹を撫でながら言われて、明は小さくため息をはく。幸仁が拾ったのだから、幸仁が面倒を見るべきだ、と思う。

……ラーメンくらいしか作れないけど? 作ったら食う?

「くうっ」

 顔を輝かせた海は、ぴかぴかに磨かれたシステムキッチンで明がインスタントラーメンを茹でる姿を見ていた。骨張った大きな手がねぎを刻んだり卵を割ったりするのを見ていた。明はその視線がときどきとても疎ましく、でも、「どけ」と言う事ができなかった。

「はやいね」(ねぎを刻んでいたとき)、「いいにおい」(顆粒のスープの素を入れたとき)、「たまごー」(卵を割ったとき)などの言葉のひとつひとつが、「どけ」の一言を押し止めた。

「いただきます」

 どうぞと明は言わなかったが、海の言葉に視線だけ送った。無地の白いどんぶりに入れられたいかにも熱そうなラーメンを、海があまりにも一生懸命にすするので、「やけどするぞ」と苛立ちを忘れて明は言う。

 すげえ犬食い、と感心してしまうくらい行儀の悪い食べ方だった。どんぶりに顔を突っこむようにして食べているのになぜかテーブルに汁が飛び散る。それでも、食べっぷりだけは悪くないと明に思わせた。王子様のようにすました顔でラーメンをちょぼちょぼと啜られたらキレそうだ、と思っていたからだ。

「ねえ」

 どんぶりから顔を上げて海が言う。箸を短く持ちすぎだ、それに、ひどいバッテン箸だ、と思っていた明は、「なんだよ」とぶっきらぼうに答えた。そもそも、どうして自分はこの男と向かい合って座っているのだろう。作ったらさっさと自室に引き上げる事もできたのに。

「けがの手当て、してくれてありがとう」

……幸仁に聞いたのか?

 ううん、と海が首を横に振る。にこっと笑った唇の端に、細かいねぎのかけらがついている。

「ぼんやり覚えてる。夢かなと思ったけど、起きたら包帯がまいてあったから。優しくしてくれてありがとう」

――べつに」

「ねえ、べつに、って口癖?

 他意のない質問だったのだろうが、海の言葉と口調と心持ち傾けられた首の角度は明を不快にさせるには十分だった。そうしてその問いにさえ、「べつに」と答えそうになった自分自身が一番癪に障った。ほぼ空になったどんぶりを奪い取るようにして無言で立ち上がると、わざと乱暴な音を立ててそれをシンクに置く。そのままの勢いで食器用洗剤のボトルを押したので、みどり色のスポンジの半分を覆う量の洗剤が飛び出した。

(大体なんで俺が作って食わせて後片付けまでしなきゃならないんだ)

 心の中で文句を垂れ流しながら、その文句をどうして海に直接言えないのだろうと明は苦々しく思う。もっともそれだって幸仁に言わせれば、「明らしい」という事になるのだが。

「ごちそうさまでした……

 冷蔵庫のそばに立って、俯きがちに海が言う。スウェット地のパンツから出た裸足の指先を小さく動かし、明のようすを窺っている。

……おこったの?

 明は答えず、海はその場所を動かなかった。どんぶりと箸とコップを洗い終え、台布巾でシンクのまわりに飛んだ水を拭ってもまだそこに居た。明は自分でも気付かぬ程度の小さな息をつき、「……べつに」とだけ言う。

「べつに」は確かに明の口癖だ。べつに不味いわけではないけれど美味くもないとき。べつに不快ではないけれど愉快でもないとき。べつに嫌いではないけれど好きでもないとき。その言葉はとても便利だ。すこし前まで付き合っていた女の子に、「なんでもかんでもべつにって言うのはやめて」と言われた事がある。もちろん楽しいシーンではなかった。別れる間際の、目が合うだけでもけんかばかりしていた頃の話だ。「すごく卑怯だわ」と吐き捨てるように言われ、明は珍しくかっとなった事を思い出す。かっとなったのはつまり、彼女の言う事が正しいと心のどこかではわかっていたからだ。「べつに」は卑怯だ。問われた答えを問うた相手に委ねるなんて。

「じゃあ、おこってないんだね」

 よかったあ、と言う海の笑顔は砂糖菓子のように甘い。不必要で不愉快な笑顔だ。砂糖菓子みたいな曖昧な食べ物は、明の気に入らない。冷蔵庫のわきに掛けてあるタオルで手を拭うと、明は海を見えないものとしてその前を通り過ぎた。

「ねえ」

(またかよ! うるせえな!

 反射的に出そうになった声を寸でのところで押し止めて振り返ると、海と目が合った。

「きょう、ユキヒトが帰ってこなかったら、おれといっしょに寝てくれる?

 その口元が緩やかに湾曲でもしていたら、明はふざけるなと怒鳴る事もしただろう。海の瞳は真っ直ぐに明を捉えており、問いかけに対する返事を真面目に待っているようだった。「べつに」と答えるわけにはいかない問いかけの答えを。

 銀色の、大人一人がすっぽり収まってしまいそうなくらい大きな冷蔵庫の前で見つめ合いながら、「寝るっていうのは、つまり、どういう事?」と、明は問いかける。

 どのような答えが返ってくるのか、想像するだけでも恐ろしい問いかけは、結局声になる事はなかった。