五月。その日、空は水色で、風はなく、ぼくの身体は4m40のバーの上を飛んだ。
――ぼくはこのバーを越えることができるだろう――助走の一歩を踏みだしたときにおそらくという言葉とともに浮かんだ予想は、ポールがボックスにあたった瞬間確信にかわった。
ぼくらが飛ぶ――ぼくは敢えて、「跳」ではなく「飛」という字を使いたいのだけれど――一瞬のことを、ひらり、と言う人もいれば、ふわり、と言う人もいる。ぶわっとか、ぐわっとか言う人もたまにいる。だけどぼくには、人々が口にするどの擬態語もぴんとこない。そこに音はない。完全な無音の世界。目の前に空が広がり、ぼくの思考はまだ産声すら上げたことのない赤ん坊みたいに無垢な場所へと立ち返る。なにも考えない。ほんの一、二秒のことだから、なにも考えられないんだろうって言われるかもしれないけれど、ぼくはそうじゃないと思う。記録のこととか、チームメイトのこととか、応援にきている友達や家族のこととか、学校の成績とか、今日の夕飯とか、ぼくのことを好きだって噂の可愛い女の子のこととか、そういうのは考える必要のないことなんだ。だから考えない。もちろん、その一瞬に限ってのことだけれど。
高校総体、男子棒高跳び。ぼくは七位で、その数字は単純な順位を示しているだけでなく、地区予選には進めないという大きな意味を持っていた。大きな意味、というのはでも、ぼくが感じていることではなくまわりの人たちが感じていることだ。「この大会には大きな意味がある」コーチが繰り返しそう言った。じゃあほかの大会にはたいした意味なんてなかったのか? って訊きたくなる。訊かないけど。ぼくはあまのじゃく。ぼくは反抗期。子供なんだ。
とにかくぼくは4m40を飛んだ。たぶんとても美しかったと思う。ぼくのラスト・フライ。
意味なんてない。五月の空は水色で、ぼくは七位で、家に帰れば約束通り豆ごはん(好物なんだ)が待っている。
それだけのことじゃないか。
*
築四十年以上の我が家は、あらゆる音がよく響く。
古い家だがそれなりに頑丈な造りだし、それほど壁がうすいとも思えないのだけれど、話し声も人の気配も不思議なくらいよくわかる。そのため、ぼくは毎朝枕元に置いた携帯電話のアラームが鳴る三十分前に目覚める。隣の部屋を使っている兄の枕元に置いてあるであろう携帯電話のアラームの音が、ぼくのセットしているそれとまったく同じものだからだ。
朝の六時。瞼を閉じていても、カーテンの向こう側の夜がすっかり明けているのがわかる。少し前まで、まだこの時間はうす暗かったのにな。そんなことをぼんやり考えながら、兄が立てるささやかな物音を聞いているこの時間が、ぼくは意外と嫌いじゃない。微睡、という言葉がぴったりだ。隣の部屋を使っている三番目の兄、碓井雅臣(うすいまさおみ)――雅兄、とぼくは呼んでいる――は、真っ直ぐで豪快(つまりややがさつ)な一番上の兄とも、おっとりしていて天然(あらゆることがスローモー)な二番目の兄とも違い、落ちついていて、几帳面で、控えめで、賢い。だから、そんな兄が立てる物音は二度寝にはちょうどいいBGMなのだ。上の二人じゃこうはいかない。
階段を軋ませながら雅兄が一階に下りて、しばらくすると台所から鍋や食器の擦れる音が聞こえてくる。更にそこへ、水音や、まな板の上を包丁がリズミカルに走る音が雑ざってくる頃、ようやくぼくのアラームが鳴る。二秒と聞くことなくそれを止め、素早く身体を起こして伸びをする。カーテンを開ける。ここのところ、空は毎日水色というわけにはいかなくて、何年も洗っていないカーテンみたいなずんぐりしたうすいグレーの日が多い。梅雨入りにはまだ早いけれど、確かに最近気温とともに湿度もぐっと上がってきた。
ぼくは寝間着のTシャツを脱ぎ、タンクトップを被ってから、少し迷って半袖のシャツを着た。夏服は六月一日からだが、もう移行期間に入っているのだ。
夏がくる。皆が口を揃えて言う。高校生最後の夏。
制服に着替え、顔を洗ってから居間を通って台所にいくと、フライパンを振るっていた雅兄が振り向いた。ぼくを視界に捉え、目元だけで笑う。
「おはよう。直輝(なおき)」
ぼくは雅兄に微笑まれると、なんだか自分がまだ小学生なんじゃないかって錯覚を覚える。三歳違いのぼくと雅兄は、ぼくが小学校に入学してから雅兄が卒業するまでの三年間、毎朝一緒に通学していた。あの頃はまだ、ぼくは自分のことを「ぼく」と呼んでいて、雅兄には、「なっちゃん」って呼ばれていた。
「おはよう。雅兄」
テーブルの上には三つの四角い弁当箱。いつもなら四つだけど、今日は木曜日だから――考えていたら、背後で居間の戸が開く音がした。
「二人とも毎日早いなあ」
暴風の中に佇んでいたのかと思わせるような寝癖をつけて、みい兄が台所にやってきた。
「あれ、みいどうしたの。今日、仕事?」
雅兄が振り返る。ちょうどフライパンに溶き卵を流しこんだところだったため、ジュワーという音に掻き消されないように少し声を張って訊ねた。
みい兄――二番目の兄、美仁(よしひと)は、駅近くの書店で働いている。勤務は週休二日制で、店にもアルバイトや社員にも定休はないが、長年勤めるうちにみい兄はなんとなく木曜日が休みというふうに固まってきたらしい。
「ん……休みなんだけど、昼からでかけるから」
あくびをしながら椅子に腰を下ろす。目元を擦っているみい兄は、寝ぼけた子犬みたい。
「あ、でかけるんだ。珍しいね。どこいくの?」
雅兄の言葉に、ぼくも内心頷いた。みい兄はおよそ世間の考える二十一歳の男性らしからぬ、老成した日々を送っている。恋人はおらず、友達もたぶん片手で足りる程度しかいない。趣味と言えば読書で、休みの日は基本的に一日中家にいる。
「デパート。お祝い選びに」
みい兄も自覚はあるのか、珍しい、の部分にはとくに突っかからなかった。
「お祝い? あ、この前結婚した友達の?」
「そう。サッカーチームの皆から、みたいな感じでは送ったんだけどさ。それとはべつに、個人的に仲いいメンバーからもちゃんとお祝いしたいよなって話になって」
二人の会話を聞きながら、ぼくは茶碗にごはんをよそう。四月の最終週。数少ない友達の結婚式に出席するため、慣れないスーツを着てぎこちなくでかけていったみい兄の姿を思いだした。地域のサッカーチーム――スターウェイヴという名前の――に所属していたなんて、いまのみい兄からは想像もできない。万年補欠だったという事実を知っていても、なお。協調性のあるタイプじゃないのだ。その点に関して言えば、ぼくとみい兄は似ている。スターウェイヴにはぼくも誘われたけど、入らなかった。スポーツは大勢でやるものじゃない、と思う。
「まあ結婚式は終わっちゃったけど、赤ちゃん生まれるし、そっち方面でなんか探してみることになってさ」
「みい兄が? 一人で?」
湯気を立てる茶碗をみい兄の前に置き、思わず驚いた声をだしてしまった。
「なんだよう」これにはさすがにむっとしたらしく、唇を尖らせてぼくを睨む。「心配していただかなくても武雄(たけお)と二人です」
耳慣れた名前を聞いて、「あ、そうなんだ」と納得した。武兄は、みい兄の数少ない友達の一人――というか、唯一無二の親友で、ぼくにとっても雅兄にとっても兄のような存在の人だ。
「夕飯までには帰ってくるの?」腰を曲げ、こまごましたおかずを器用に弁当箱に詰めていきながら雅兄が言った。「もしよかったら武兄も誘って、久々にうちでごはん食べようよ」
「あ、」箸を手に取ったみい兄が、大きな目をきょろきょろと動かして口ごもる。「ん?」と顔を上げた雅兄に、
「いや、武雄が、夜は、なんか外で食おうって。店とか予約してるみたいだから」
と、なぜか言い訳をするみたいに言った。
「予約? わざわざ? ファミレスとか居酒屋じゃなくって?」
腰に手をあてて身体を起こした雅兄が、目をまるくする。
「うん、なんか、そうみたい。前から観たい映画があるとか言っててさ、でもホラー系で、俺あんまり得意じゃないから渋ってたら、飯奢るからって、その」
映画? わざわざ? と、ぼくも心の中で言った。口にださなかったのは、二人がいっぺんにハテナマークを投げたらそれだけでたぶんみい兄のキャパシティを軽々オーバーしてしまうからだ。でも、それは妙な話だった。みい兄はそれほど映画が好きなわけじゃないし、武兄だっていつもレンタル待ちなのに。
へえ、と雅兄がつぶやいた。なにか面白がっているみたいに、口の端を片方だけ上げて。
「デートみたいだね」
「デッ……いやそういうんじゃないけど!」
みい兄が無意味に勢いよく立ち上がり、机が揺れた。変な会話。親友と二人ででかけることが、なぜデートになるのだろう。ぼくは揺れが収まってからみそ汁の椀を置いた。自分のぶんと、みい兄のぶん。
「まあ、楽しんできなよ。じゃあ今日の夕飯は直輝と二人だね」
「二人……あ、そっか。なっちゃんもう全然部活ないの?」
椅子に座りなおしたみい兄に、ぼくは返事をしなかった。漬物の入った容器を開けながらじろっと睨むと、「あー」とみい兄は口をまるく開けて頭を掻いた。
「直輝。直輝直輝、うん、ああ、慣れない。べつになっちゃんでよくない?」
「よくない」
短く答え、箸を合わせて「いただきます」とつぶやく。なっちゃんではなく直輝と呼ぶように頼んだのは高校に入ってすぐだったはずだ。一体どれほどの時間を費やせば、みい兄は慣れてくれるのだろう。順応力が低いにもほどがある。だけど、ごはんを口に放りこみ、うにゃうにゃ動かしながら、「直輝……直輝……」と呪文のように繰り返すみい兄を見ていたら、結局笑ってしまう。
「まあ、追い追いね。慣れてよ」
「うーん。努力する」
「部活はいってもいかなくてもいい。自由なんだ。だけど三年生がいると、二年生がやりづらいだろうと思って、あまりいかないようにしてる」
「そういうものかあ」
「うん。そういうものみたい」
ぼくらのやり取りに雅兄が笑う。三つの弁当箱には、雅兄の作ったネギ入りの卵焼きや蒟蒻の炒め煮が詰まっている。メインはコロッケ。商店街の入り口にある肉屋のものだろう。
あれっ、と、みい兄が声を上げた。
「今日、聖兄の弁当いつもより少なくない?」
弁当箱は、白がぼくので、グレーが雅兄ので、黒が一番上の兄、聖(せい)兄のものだ。そう言われてみれば、いつもはぎゅうぎゅうに圧縮されている米がふんわり盛ってある気がしたし、おかずは野菜の割合が高めだった。
「ちょっとね、胃の調子があまりよくないみたいだから」
肩を竦めて雅兄が言う。左側の眉だけを器用に下げ、左側の目だけをすぼめる、雅兄のいつもの苦笑い。
「え、そうなんだ? 確かにここ最近忙しそうだもんなあ。新店舗任されるんだろ? すごいなあ、聖兄は」
みい兄の声があまりにも平和なので、ぼくはなんだか苛々してしまった。
「飲みすぎなんじゃないの、単純に。ゆうべもずいぶん遅かったよ。三時くらいだった」
ぼくの物言いは、我ながら感じが悪かった。みい兄が一瞬動きを止めてから、「三時? 起きてたの?」と、当たり障りのない質問をする。
「起きちゃったんだ。足音で」
「あー、うん。うちの階段いつ抜けてもおかしくない感じの音するもんな」あはは、とみい兄が笑う。ぼくは笑わない。「でも、聖兄も大変だよな。業者の人との飲みとか、そういうの結構あるみたいだし。俺には絶対無理だなあ」
下手くそなフォローに苛立ちが募る。そういう、自分を下げて相手を上げるみたいなのは好きじゃない。みい兄は大体昔から、聖兄はすごいとか、俺は聖兄とは違うからとか、言われなくても見ればわかるよってことをいちいち口にだすきらいがある。
「頭が痛くなる。聖兄が帰ってくると。酒のにおいで」
「直輝」
いままで黙っていた雅兄が、厳しい声でぼくの名前を呼んだ。びくっとしたのはでも、ぼくじゃなくてみい兄だった。
「なに」
静かに答えた。なにを言われるのかは、大体察しがついていた。
「聖爾兄さんが好きで酒を飲んでるわけじゃないことくらい、直輝だって知ってるだろ」
知ってる、と、心の中で答える。聖兄はそんなに酒が好きなわけじゃなくて、ほんとうはサッカー選手か教師になりたかった。通っていた高校のサッカーチームで、一年生の頃からレギュラー入りを果たしていたのは聖兄だけだった。まったく縁のない人だって名前を聞けば優秀だと頷く東京の大学の、合格判定だって貰っていた。そんな聖兄がどうして高校を卒業してすぐに知り合いの焼肉屋で働きだしたのかも、よく知っている。じいちゃんとばあちゃんが残してくれたお金だけで、ぼくや雅兄やみい兄が学校に通えるわけがないのだ。みい兄は高校を卒業してから働いているけれど、ぼくはまだ高校生で、雅兄は大学生だ。我が家では唯一の。
「ごめんなさい」
「僕に謝る必要はないよ」
ぼくの謝り方もよくなかった。気持ちをこめようって努力すら払わなかった。だけど、こういうときの雅兄の返事はひどくつめたい。
雅兄のつめたさは、ぼくに異質なものを感じさせる。この家で、こういう怒りの表し方をするのは雅兄だけだ。記憶の中の祖父母も、この場にいない歳の離れた兄も、目の前で大きな瞳を所在なげにさ迷わせている兄も、こんなふうになにかをぐっと抑えたような声はださない。もちろん、ぼくが生まれてすぐに死んでしまった両親のことまではわからないけれど、わかったところでそれがどう関係してくるだろう?
ぼくは思考を遮断する。考えても仕方のないことは考えない。茶碗に残っていたごはんをみそ汁で流しこみ、「ごちそうさま」と言って立ち上がる。食器を流しに運んで、洗面所に向かう。
「弁当、包んでおくから忘れずに持っていけよ」
雅兄がぼくの背中に向かって言った。忘れたことなんか一度もないのに。振り向こうか振り向くまいか少しだけ考えてから、「うん」と振り向いて答えた。目が合うと、雅兄はちょっとだけほっとしたみたいに見えた。ずっとみそ汁のお椀を傾けて固まっていたみい兄も、やっと中身を一口飲みこんだみたいだ。みい兄も雅兄も綺麗な二重瞼だけれど、二人はあんまり似ていないな、ってぼくは思う。思うだけで、もちろん誰にも言わないけれど。
空の上以外で、なにかを考えないようにするのってすごく難しいや。
*
学校では、毎日誰かと誰かが付き合いだしたり、別れたり、自然消滅したりしている。
「そういう時期なんだって。好きとか嫌いとかじゃないの。動物には盛りってのがあるでしょうが」
皆よくそんなに人を好きになったり嫌いになったりするものだ、というようなことをつぶやくぼくに、多田(ただ)が言った。
「さかり」
意味はわかるけれどあまり使うことのない言葉だったので、ひとりごとのように繰り返した。
「そう、盛り。わかるかね、碓井クン」
多田の手の中でくるくる回るきみどり色のシャープペンシルを見ながら、「わからない」と答えた。動物の盛りなら話はもっと簡単だ。告白もいらないし、別れの言葉もいらない。消滅するようなものもないだろう。人間には、面倒な手順が多すぎる。
たとえば、「付き合ってください」と女の子が言う。場所はひと気のない、放課後の階段の踊り場だ。「ごめん」とぼくは言う。「付き合えないってこと?」と女の子が言う。「うん」とぼくは言う。数秒の沈黙。女の子が唇をきゅっと噛む。ぼくの頭の中でカウントダウンが始まる。下まつ毛を涙が濡らすまでのカウントダウン。ぼくはじっとしている。女の子が、零れたそれを指先やハンカチで拭う。ぼくはまだじっとしている。それから頃合いを見計らって、「ほんとうに、ごめん」と言う。女の子は首を横に振る。「ううん。ちゃんと伝えられてよかった。聞いてくれてありがとう」ちゃんと? と、ぼくは思う。ちゃんと、なにが伝わったのだろう。ぼくはなにを聞いたのだろう。はてな。
シャープペンシルが、ぴたっ、と止まる。
「まァ棒高跳び一筋でここまできた直輝にはわかるまい。この多田様が一から教えてやろうではないか」
「なにを」
「男女のアレコレ?」
「べつに知りたくない」
しかも彼女もいない多田に教わっても意味がない気がするけれど、という言葉はのみこんだ。ぼくにだって、人並みの優しさや気遣いはあるのだ。
「ところでそのかわりに、この問題教えて。意味わからんわ」
知りたくないという返事はまったく聞こえていないらしく、多田は参考書を広げて【問2】をシャープペンシルの先で突く。「貸して」逆さまになっている参考書を自分のほうに向けて、小さな文字を追う。昼休みは残り二十分。窓の外からは、どこかのクラスの男子がバスケットボールをしている声が聞こえる。
ぼくのことを「棒高跳び一筋」なんて言うけれど、多田だってずっと800mに夢中だった。普段は調子のいいことを言って人を笑わせたり人に笑われたりしている多田が、どれほど真剣な顔でトラックを二周するか、ぼくは知っている。もちろんそれだって、終わってしまえば「それだけのこと」で、部活をほぼ引退したいまはこうしてふざけたことを言いながら参考書とにらめっこしている。その顔だってそれなりに真剣だし、悪くない。いつまでもトラックを走っているわけにはいかないし、いつまでもポールを握っているわけにはいかないのだ。
授業開始五分前のチャイムが鳴り、机を寄せ合って弁当を食べたりお喋りをしていた固まりが自分の場所に戻るためにがたがたと動きだす。教室のドアが頻繁に開き、そのたびに、連れ立ってトイレにいっていたと思しき女の子たちが色とりどりのハンカチを手に入ってくる。もちろん男子の姿もちらほらある。
本鈴が鳴る直前、最後に入ってきた人物に、ぼくの視線はなんとなく吸い寄せられた。
「ちょっと浮いてるよな。石羽手毬(いしばてまり)」
前に向きなおろうとしていた多田が身体をさっと翻して耳打ちするように言った瞬間、ぼくは自分の視線を辿られたのかと思ってどきりとした。しかし、多田は多田で教室に入ってきた彼を見ていたらしい。客観的に引いて見てみると、ぼくや多田以外にも彼の姿を目で追っている人はいた。本人は気付いているのかいないのか、どこか優雅な感じのする動きで自分の席――偶然にも、ぼくの隣の席――に座ると、教科書やノートをだして机に置いた。三つの立方体が描かれた表紙の数学の教科書は、ぼくらが使っているものとは違う。三日前に転校してきたばかりだから、まだ新しい教科書が届いていないのだろう。それとも、教科書なんてどれも似たようなものだから、買い替える必要はないのだろうか。
そんなことを考えていたら、多田がぼくの腕を軽く叩いた。目が合うと、ひょいっと肩を持ち上げてなにかしらの目配せをしてきたが、どういう意味なのかはわからなかった。なに? と訊ねようとした瞬間、前のドアが開いて先生が入ってきた。
「ずいぶん気温が上がってきたなあ」と、手で顔を仰ぐしぐさをしながら先生が言い、前のほうの席の誰かが、「先生ダイエットしなきゃやばいっすよー。その腹ー」と茶化した。そういうことを言っても許してくれるタイプの先生なのだ。案の定、「なんだとお。これはお前らから受けるストレスのせいだ」と先生が反論し、教室は緩い笑いに包まれた。
ぼくは笑わなかった。べつに面白くなかったから。ちらりと横目で見遣ると、石羽手毬も笑っていなかった。
(続きは本編でお楽しみください)