美大に通っている、と言うと、みんな口をそろえて「すごーい」と言う。俺はそのたび、全然すごくなんかない、と思ってすこしうんざりしてしまう。もちろん相手を不快にさせたくはないので、うんざりした顔なんか見せはしないけれど。
でも考えてみれば、数学がめっぽうだめな俺は、大学で数学科を専攻していると聞けば「すげえや」と言ってしまうだろうから、まあ同じことだ。数学はでも、就職には有利だと思う。すくなくとも、俺が好んで勉強している美術という分野よりはずっと、社会的に求められているだろう。
俺たちってごくつぶしだよなあ、と、友人たちと話すこともすくなくない。美大を出たって、絵に関する職業に就いて生活していける人間なんてごくごくわずかだ。絵なんか描く暇もなくなってしまった営業マンの先輩や、中学生にあだ名をつけられることや親のクレームや夏休み中の見回りにげっそりしながらも美術の教師として生活している先輩を、今までたくさん見てきた。まだ就職活動を始めなければいけない時期ではないけれど、そういう姿を見ていると、木炭を消すために食パンをこねる指も止まるというものだ。
そして今、近くの大学に進学した高校時代の友人にどうしてもと言われて出席した合コンで、俺はやっぱり「すごーい」という言葉をあびている。
目の前に座っている女の子たちはすべて、このあたりでは有名なお嬢様女子大の皆様方だ。その小ささで一体いくらするんだろうと思うようなブランド物のバッグや、終電に乗り遅れそうになって必死で走った経験などなさそうな華奢なヒールのパンプスやサンダル。でもそれが彼女たちにとっては大事なものなのだ。彼女たちを守るさまざまなものたち。俺にとっての、さまざまな画材と一緒だ。結局なんの役に立つのか、わからないものたち。
「あたしも結構、美術館とか好きで行くんですよお。え、どんなの描いてるんですか?」
俺にそう声をかけてきた子は、今日来ている四人の女の子の中で誰が見てもいちばん可愛い子だった。俺を誘った友人が、ななめ前の席からぎろりと一瞥する。この子を狙っているのだ。
そして、この子が狙っているのは俺だそうだ。これは自惚れではなく、きちんとした裏付けがある。さっきトイレに行こうとしたら、女子トイレの前での女の子たちの会議に出くわしてしまったのだ。
「ねえ、今日結構アタリだね。誰狙い?もう決めた?」
俺は足を止めた。興味があったわけではなくて(いやまったくなかったと言えばもちろん嘘になるけれども)、そこを通らなければ男子トイレに行けなかったからだ。
「あたし、美大の子。なんか、大人しそうなとことかツボなんだよね」
「え、ずるいー。あんたが行ったらみんなもう無理じゃん」
だって、決めてたんだもーん。と、いちばん可愛い女の子は悪戯っぽく笑う。
そうかあ。美大の子かあ。美大の子というのは、つまり俺のことかあ。と、俺はぼんやり思った。
大人しそうなところが〝ツボ〟と言われて、なんだか笑ってしまう。〝ツボ〟って、不思議な表現だなあ。
「とにかく、拓海はあたしが狙ってるんだから、みんな手え出さないでよね」
うふふ、と微笑むその顔のふっくりとした白い頬にはうすい桃色のチークが施されていて、絵画の天使みたいに……見えるはずもなく、俺はなんとなくぞっとした。
狙ったり狙われたり、俺たちはまるで本能だけで生きている動物のようだ。でもこれはたとえであって、本能だけで生きている動物たちのほうが、よっぽどいいと俺は思った。
どんなの描いてるんですか?という質問に、「まあ、風景とか、人物とか、色々です。課題もあるんで」と、俺はあいまいに答えた。
「へええ。見てみたいなあ」
自分が可愛いというのをわかっている声と表情に若干引き気味になりつつ、ななめ前からの突き刺さるような友人の視線にも若干引き気味になりつつ、「機会があれば」と俺は適当に言う。それからわざとらしく「あっ」と言って携帯電話の画面で時計を確認すると、「俺、そろそろバイト行かなきゃ」と、立ちあがった。
ええーと女の子たちは不満げな声を漏らし、友人たちは「今日は忙しいのに悪かったなあ」とにこにこ微笑みながら言った(俺が帰るのがそんなに嬉しいのか。こんにゃろ)。
俺を狙っている可愛い女の子は、さっと俺の携帯電話を奪うと、長い爪が画面にあたらないように器用に人差し指を動かした。「あたしの番号登録したから」と微笑むその顔は、まるでアフロディーテ……のわけもなく、俺はまたあいまいに微笑んだ。
ほぼ毎日、俺はコーヒーショップでアルバイトをしている。コーヒーショップといっても流行のチェーン店ではなく、例えるなら駅の構内にむかしからあるような、ちょっと古めかしい店だ。駅の近くの、わりと立地のいい場所にあるので、時間帯によってはまあまあの客入りがある。でも大体のお客は、電車に乗り込む前の朝の一杯だったり、電車を降りてから帰り道に飲む一杯だったりで、テイクアウトが主だ。店も、カウンター席のみだし。軽食メニューとしてホットドックとサンドウィッチもあるけれど、個人的にはあまりおすすめではない。なんだか口の中の水分がすべて奪われるみたいな、独特の食感だからだ。
オーナーは五十代ののんびりしたおじさんで、高校時代の担任の知人だ。担任が、俺の頼りなさを見るに見かねて(べつに俺、頼りなくないけど)大学に入ると同時にこのアルバイトを紹介してくれた。
コーヒーショップは土地自体がオーナーの持ち物なので、何があっても潰れることはないのだそうだ。オーナーはもともと資産家で、ここ以外にもマンションを持っているらしい。家賃収入だけで暮らしていける、というのは、本人がのんびりした口調で言っていた。
俺はこのアルバイトを、すごく気に入っている。業務内容が楽だとか、そのわりに時給が良いとか、余ったホットドックをもらえるとか(ん?これはべつに望んではいないのだけど?)色々あるけれど、いちばんの理由はマルスが見られることだ。
マルスは、ローマ神話に出てくる戦いの神だ。といっても、べつに神話に興味があるわけではない。マルスは、中学生のときからいちばん好きな石膏像なのだ。戦いの神にも関わらずとてもきれいな顔をしていて、角度によってはうっすらと微笑みさえ浮かべているように見えるその青年を、俺はずっと好ましく思っていた。
色んな角度から何枚も何年間もデッサンし続けたマルスは、自分自身が写っているアルバムよりも、俺自身を映し出しているのではないかと思う。もっとも、アルバムなんて学校の卒業アルバムくらいしかないけれど。
でも、俺がここで見ているのは石膏像のマルスではない。
マルスは、いつも自転車に乗っている。前かごのない、棒を組み合わせたみたいな赤い自転車(たぶんマウンテンバイクとかいうのだろう)はマルスによく似合っていると思う。マルスは基本的にいつも細いジーンズを穿いていて、Tシャツは奇抜なプリントや、ところどころが破けたようなパンク調のものを着ていることが多い。髪もすごく明るい金色に染めているので、パンクとかロックとか、そういうのが趣味なのだろうか。
俺は、コーヒーショップのカウンターの中から、マルスをじいっと観察する。その骨組みと、うすくついた筋肉を観察し、滑らかな肌の質感を想像する。
俺のいうマルスとは、コーヒーショップの前を毎日のように通る青年のことだ。軍神マルスに似ているから、勝手に名付けた(気色悪いだろう。自分でも、そう思う)。俺と同じくらいの年頃で、すごくきれいな骨格の持ち主だ。その骨を覆っている筋肉の付き方もまた、すばらしい。それ以外は、特に知らない。
マルスはいつも夜の九時くらいに店の前の道を駆け抜けていく。運のいい日だと、一日に二回見られる日もある。
先の見えない未来と繰り返される日常の中で、マルスは俺の癒しだった。好きだとかなんだとかではもちろんなくて、きれいなものを見ていると癒されるのだ。けっして近くならないこの距離の感じも、なんとなく俺を安心させた。
マルスは、どんな声をしているのだろう。どんなふうに笑い、どんなふうに話すのだろう。
でもそれは、そう思う以上に先には進まない。俺と彼の間には、コーヒーショップの窓ガラスという透明の—それでいて絶対に破ることはできない—壁があるのだから、と俺はずっと思っていた。
その日は、驚くほど突然やってきた。
珍しく朝からバイトに入った日で、俺はカウンターの中でぼうっとしたり、絵を描いたり、本を読んだりしていた。雨の降る日曜日は、おそろしいくらい暇だった。早朝から降り出した雨は、俺が出勤する十時頃には言葉通りバケツをひっくり返したような大雨になっていて、そりゃあこんな日にわざわざ外出しないだろうと思わせた。
俺と交代するかたちで自宅に戻ったオーナーから、昼の十二時前に電話がかかってきた。「暇すぎて帰りたかったら早めに閉めても構わないから」という内容の電話だった。でも、店の扉にはいちおう〝OPEN 7:00 ~ CLOSE 23:00〟となっているのだから、そんなことを昼の十二時前に言われてもなあ、と俺は思った。
「早めって、何時ですか、たとえば」
左手で店の受話器を持ちあげながら、右手でメモ帳にさくらんぼを描いた。ボールペンで陰影をつけていくと、さくらんぼがだんだんアメリカンチェリーに見えてきた。そりゃあそうか。だって黒いボールペンだもんなあ。
「拓海くんが思う時間でいいよ。ああ、心配しなくても時給はちゃんと、夜までの時間付けておくから」
はあ。と俺は答える。
「でも、今外にも出られない感じなので、まあとりあえずは仕事します。あ、いらっしゃいま—」
あ、お客さん?じゃあまあ頼むよー。と言う、いつも通りののんびりした声が聞こえて、電話は切れた。
俺はというと、いらっしゃいませを最後まで言うことができず、〝ま〟の口の形のまま固まっていた。
透明のドアを引いて入ってきたのは、マルスだった。雨に濡れた金色の髪は、生まれつきそうなのかと思うくらい彼に馴染んでいた。
物語の登場人物が目の前に立体となって現れたような気分だった。ここでバイトを始めてからの二年以上毎日のように見ていたわけだけど、素早く走り去る彼が俺の目に映るのはせいぜい五秒ほどだ。こんなに近くで見る日は、なんとなく一生訪れないんじゃないかと思っていた。
マルスは一瞬、スニーカーの足元をためらわせた。びしょ濡れの彼が歩けば店の中が濡れるのは必至で、どうやらそれを気にしているらしかった。
「あ。あの、構いませんよべつに。あとでモップかけるんで」
ハッとしながら声を掛けると、彼もハッとしたように顔をあげ、そこでマルスと初めて目が合った。二年以上もまじまじと観察していたのに、よく考えてみると正面から顔を見るのは初めてだった。いつも、自転車で走り去る横顔ばかりだったので。白い肌によく似合う、紅茶色の瞳だった。
「あ、すんません。すっげえ雨だから」
構いませんよべつにと言ったのに、それでも彼は申し訳なさそうに歩いた。
初めて聞く声は、想像と違ったような気もしたし、想像通りのような気もした。鈴みたいな声だなと思った。
申し訳なさそうに歩いたところで、彼がびしょ濡れであることにかわりはなかった。一体なぜこんな日に、というハテナマークが頭の上に浮かんだ。
えーと、と、カウンターにあるメニュー表を見ながらちいさく呟くマルスを、変に思われない程度に観察した。顎から首にかけてのラインがしゅうっと一本の線で描いたように滑らかで、肌は透明みたいに思えた。どういう色を混ぜたらそんなふうになるのか、不思議だ。
ぱたっ、としずくがメニューの上に落ちて、何か拭くものを渡すべきなのだと気付いた。滴るしずくも含めて美しいと思ったので、それを拭うことなど考えもしなかった。
「あ、えと、ああ、とりあえず、どうぞ」
おしぼりを手渡すと、マルスはびっくりしたようにきょろっとその瞳を動かした。カウンター越しに瞳がぶつかって、蛇に睨まれたカエルよろしく、俺はすっかり固まってしまう(使い方が違うけれど、まあそこはご愛嬌で)。
でもすぐに彼は「あ、すんません」と笑った。笑うと目じりにしわができて、思っていたよりも幼く感じた。
差し出された手はきれいだった。今日も個性的なTシャツ(イエス・キリストがプリントされている)を着ていて、雨ですっかり濡れそぼったそれは、マルスの肩や胸元に張り付いていた。
ほんとうにきれいな形の身体だなあと思い、思ってから自分が物凄く変なやつだということに気付いた。でもべつに、男が好きとかそういうのではなくて、ただただ彼が俺の〝ツボ〟の体型なのだ。
えーと、と繰り返しながら、マルスはがしがしとその顔を拭く。傷がついたらどうするんだろうと、はらはらしてしまうような粗さで。
「じゃ、カフェラテ」
アイスで、と彼は顔をあげ、微笑んだ。また目が合って、なぜか頭が真っ白になってしまう。かしこまりましたと言ってから、サイズは何にするのか、ここで飲むのかテイクアウトにするのか、何も訊いていないことに気付く。
「あ、すいませんあの、サイズどうします?あ、あと、持って帰りますか?」
「あー。レギュラーで。あー。持って、うん、持って行きます」
腕に付けた黒くてごつい時計と、窓の外を交互に見てから彼はそう言った。
雨はちっとも弱くなる気配を見せないが、時計を見たということは、決められた時間に行かなければならないところがあるのだろう。
カフェラテを用意しながら、気付かれないようにようすを伺った。窓の外を見る横顔はやっぱり俺のツボのラインだった。顎の骨をたどっていったその先にある、形のいい耳も。合コンで出会った女の子のした〝ツボ〟という不思議な表現を俺はもう笑い飛ばすことができない。見れば見るほど、〝ツボ〟だった。
コーヒーショップの窓ガラスという透明の壁は、ずっと動かないものだと思っていた。でも、それはどうやら俺の勘違いだったようだ。窓ガラスには、同じく透明の扉がついていて、ちょっと引けば開くものだったらしい。そうしてそれを開けたのは、他でもないマルスだった。
マルスはずっと、窓の外を見ていた。
俺はずっと、彼を見ていた。