碓井雅臣(20)・大学生

『連続的恋愛綺譚』より


 ときどき、僕は神に祈る。

 ときどきというには頻繁に祈る。

 ——僕にこの場所を与えてくださってほんとうに感謝しています。

 ですからどうか、僕からあの人を奪わないでください。

 あの人をどこにも連れていかないでください。

 そしてできることなら、僕がなにも誤ることのないように見守ってください。

 どうか……——

 しかし祈れば祈るほど、自分の中での神というものがどういう存在なのかわからなくなるのも事実だ。キリスト? ヤハウェ? アッラー……うん。

 結局のところ、こうも頻繁に祈るということ自体が、根底ではそれを信じていない証拠なのだろう。これでは信仰というものを馬鹿にしていると思われても仕方がない。

 それでも祈らずにはいられないのだ。

 瞼を開くたび訪れる幸福が、あまりにも眩しくて。あまりにも尊くて。あまりにも恐ろしくて。

 神さまがいるのだとしたら(だとしたら?)

 僕のそれはきっと(きっと?)

 きっと、……

 

 

 目覚めると、喉の奥がほこりっぽく乾いていた。携帯電話のアラームを解除し、無意識にそこを押さえる。唾を飲みこむと、それに伴ってのどぼとけが動いた。

 十月。僕の身体は、新しい季節を迎えるとともにこうして小さな支障をきたす。ほとんど機械的に。まるで、流れていく月日を意識せよと身体が知らせてくれているみたいに。

 着替えをして、軋む階段をできるだけ軋ませないように努力を払いながら下りる。自分の体重やらこの家の古さやらを考えると無駄な努力だと思うのだが、兄たちも弟もまだ眠っていることを考えると、どうしても忍び足になってしまう。

 一階の洗面所にいき、なるべく鏡で自分の顔を見ないように顔を洗う。慣れてしまえばそんなに難しいことじゃない。

 台所に立って朝食と弁当の準備をしていたら、寝起きのいい弟が階段を下りてくる音が聞こえた。一番上の兄ほど豪快ではないが、二番目の兄ほど控えめでもなく、もちろん僕ほど卑屈でもない、自然な足取り。

「おはよう、雅(まさ)兄」

 引き戸を開け、直輝が言う。まだ少し眠そうな弟の声は、すっかり声がわりを終えたいまでもどことなく幼い感じがする。響き方が素直なのだ。

「おはよう直輝(なおき)。みそ汁、昨日のだからちょっと煮詰まって辛くなってるかも。卵落とす?」

 振り返って一息に告げると、直輝は少し考えてから、「落とす」と素直に答えた。食器棚から自分の箸や茶碗をだしている。僕は流しに向きなおり、火にかけた鍋に卵を落とす。

「雅兄、ちょっと声掠れてる。風邪?」

 背中にかけられた言葉に内心驚きつつ、

「いや。朝だからじゃないかな」

 と言った。こういうとき、「うん。ちょっと風邪っぽい」と、ほんとうのことを言えないのはなぜだろうと不思議に思いながら。

 体調不良を訴えるのが苦手だった。子供の頃からいまに至るまでずっとだ。

 出先で突然腹痛を覚えても、授業中に頭痛を伴う寒気を感じても、保護者——僕の場合、それは祖父母になるのだが——や先生に申しでることはほとんどなかった。我慢という言葉を教わる前から、「我慢すればどうにかなる」と知っていた気がする。

 ただもちろん、「どうにか」ならないときもあって、そういうときはたいてい祖母が僕の異変に気付いてくれた。——雅臣? 具合が悪いんじゃないの?——一つ年上の兄のことや、三つ年下の弟のことは、みいちゃん、なっちゃん、と呼んでいたのに、祖母が僕をそういった愛称で呼ぶことはなかった。

 それを寂しいと思うことがなかったと言えば嘘になる。しかし愛称で呼ばないからといって祖母が自分に愛情を持っていなかったなどと思うわけではない。僕を呼ぶ声は柔らかく、名前を呼ばれると、ちくちく痛む腹も締めつけられるような頭痛も和らいでいくように思えた。まるく優しい声で、祖母は僕を呼んだ。「雅臣(まさおみ)」と。それで十分じゃないか。子供心にそう思っていた。思うことで、寂しさを紛らわせようとしていたのかもしれないけれど。

「おはよーう。雅、なっちゃん。いいにおい……」

 弁当に入れる豚肉の生姜焼きを皿に上げたとき、目を擦りながらみいが起きてきた。制服に着替えている直輝と違って寝間着のままだ。どういう寝方をしたらそうなるんだろうと首を傾げたくなる、ひどい寝癖をつけている。

「おはよう、みい。みそ汁に卵落とす?」

 返事を聞く前に生卵を掴んでいた。みいはぱっと目を輝かせると、

「落とすっ」

 と嬉しそうに言う。直輝が、「おはよう、みい兄」と、どこか呆れたように肩を竦めた。

 ここのところ、「なっちゃんじゃなくて直輝」と刺々しく言うことはなくなっていた。三年近くかけて無駄だと察したらしい。傍目に見ると、なにもそんなことに頑なにならなくても、と思われる「なっちゃん→直輝の攻防」だったが、僕も歳が離れていたら「まーちゃん」とでも呼ばれていたかもしれないと想像すると、やっぱり直輝と同じように戦ったかもな、とも思う(そしてたぶん、同じように敗退しただろう)。

 雅臣。昔祖母が呼んでくれた僕の名前を、いま、家族の中で——というかこの世の中でそう呼ぶのは、七つ年上の兄、聖爾(せいじ)だけだ。

 だけど残念ながらと言うべきか、同じように呼ぶからと言って、祖母のように僕の体調不良に気付いたりはしない。

 ただ、気付かない、ということと、優しくない、ということは決してイコールではない。

 聖爾は優しい。祖母と同じく——否、祖母以上に。優しく、男らしく、快活で、明瞭で、曲がったことが嫌いで、驚くほど鈍感だ。更に、それすらも美点にしてしまうから厄介だ。

 たとえば聖爾は、四十度近い熱をだして倒れるまで僕が風邪を引いていることに気付かない。ほかの人たちのように、「鼻声だね」とか「ちょっと咳でてるね」とか言うことはほぼない。無頓着なのでも無神経なのでもなく、単純に見えていないのだ。

 前向き、というのは聖爾のような人のことを言うのだと思う。右も左も後ろも見ない人のこと。

「そうだ、今日僕バイトだから、夜適当に食べてね」

 武骨な四つの弁当箱をどうにかすきまなく埋めて、洗い物に移りながら言った。

「あれ、火曜なのに?」

 やっと目が開いてきたらしいみいが、口いっぱいに頬張ったごはんを飲みこんでから言う。

「もうすぐ中間テストだからね。それまで週二に増やしてもらえないかってお母さんから連絡貰ってさ」

「なるほど。本人じゃなくてお母さんってとこがミソだ」

 みいが目を細めて笑う。しかしすぐに両方の眉を下げて、「って言うか雅、喉どうかした?」と心配そうに訊いた。

 泡のついたスポンジを握ったまま、「えっ」と思わず振り向く。

「変かな、声」

「いや、声は変じゃないけど、さっきからときどき喉触ってたからさ」

「ああ」頷いてから首を横に振った。「いや、なんでもないよ。大丈夫」

 右頬に直輝の視線を感じたけれど、気付いていないふりをして蛇口を捻った。

 昔から概ね、健康優良児と言える見た目をしていたと思う。背が高かったし、どちらかというと日に焼けやすかったから。それなのに——というのも変な言い方だけれど、でも——、季節のかわり目にはきっちり風邪を引き、よく熱をだす。

 僕が体調を崩すたび、聖爾はひどく落ちこむ。ほんとうに、自己申告しなかった自分が極悪人みたいに思えるほど目に見えて悄気る。「もっと早く言ってくれたらよかったのに」「言ってくれたら看病するのに」そう言って善良な兄が肩を落としている姿を見ると胸が痛む。疼く、と言いかえてもいい。

 看病されるのが嫌だから黙っているのだ、という本心を明かした日には、きっと三日くらいは真剣に落ちこむだろうということもわかっていて、だから僕は曖昧に、「うん」とか「そんなたいしたことじゃないから」とか答えることにしている。

 あの人の、と僕は繰り返し思う。聖爾のことを頭の中で考えるとき、いつからか〝あの人〟と呼ぶようになった。

 あの人の善良さは残酷だ。

 痛むか? 聖爾はたとえばそう言って、恐ろしく長い指で僕の額に触れてくる。或いは、熱いな、と、低く静かな、しかし素晴らしくよく通る声で囁いて、耳や頬に手のひらを滑らせる。聖爾の身体的なあれこれを言葉にしようと思うとき、僕はどうしてもオーバーな表現を使ってしまう。恐ろしく、素晴らしく、あまりにも、圧倒的に……

 看病なんかされたくない。身体が弱っているときに聖爾の善良を受け止めることなんて僕には到底できない。それなら、胃痛や頭痛を我慢するほうがずっと楽だ。

 これは異物だ、と僕は感じる。触れている指や手や、かけられる声が、まったく自分の知っているそれと違う、と。

 いつ恋に落ちたのか、と訊かれたら

 背中に触れられたときだ、と答える。

 それまで僕は、自分に背骨があるということを知らなかった。

 聖爾の指が触れてはじめて、僕には背骨があったのだと知った。しかもそれは、脊椎というばらばらの骨が並んでできているものなのだと。

 なにを言っているんだ? と、人は思うかもしれない。

 僕も、経験していなければ或いは思うかもしれない。

 だけど一度触れられればわかる。

 僕には背骨があったのだ。

 それはあの人に触れられるために存在していたのだ。

 

 

 是枝(これえだ)、という表札のついた立派な門のインターフォンを押そうとしたとき、右上のほうから、がさっ! という音が聞こえた。是枝宅の庭木が揺れたのだ。

 鳥が飛び立ったようすもないし、風は吹いていない。妙だなと思いながら、門の端まで歩いていって角を曲がった。まだ微かに揺れている木を見上げると、学生服を着た少年が太い幹にしがみついていた。登ろうとしているわけではなく、どこかから下りてきたようだ。木を伝ってどうにか塀に飛び移ろうとしているらしい。が、慣れてはいないようで、ずずず……と手足が木の表面を滑っていくたび顔を青くしている。僕も含めて、いまどきの少年は木登りなんかしたことがないだろうし、それでなくても相当な高さだ。

「靴、投げるよおー」

 少年の緊迫感とはまるで対照的な、のんびりとした声が更に上のほうから降ってきた。予想していた通り——と言うか、是枝宅の間取り的にそうとしか考えられなかったのだが——、少年のスタート地点は沙弓(さゆみ)ちゃんの部屋だった。開いた窓と木を、僕があんぐりと口を開けて見ていることに、少年と沙弓ちゃんは同時に気付いた。

「あ、碓井先生、こんにちはー」

 真っ黒のストレートヘアをさらさらと靡かせて沙弓ちゃんは言う。それから、未だ木と格闘している少年に、「カテキョの碓井先生だよ。ほら、前話したでしょ」と告げる。このタイミングでそんなこと言われても……と少年が思ったであろうその瞬間、沙弓ちゃんは容赦なく、窓から道に向けてスニーカーをぽーんと投げた。リーボックのポンプフューリー。綺麗な放物線を描くそれを眺めながら、最近の子はいいスニーカーを履いているんだな、とぼんやり思った。

「じゃあ気をつけて帰ってね。碓井先生、早くピンポンして、ピンポン。ママがさっきからあたしを呼んでるの。部屋にきちゃう」

 少年とばっちり目が合った。茶色く染めた髪の襟足を無造作に跳ねさせた、いまどきの若者、という感じの男の子だ。どう考えても理不尽な対応をされている上に結構緊急事態の真っ只中だと思うのだが、彼は僕にぺこっと頭を下げた。助けるべきか? と考えていた僕も、とりあえず大丈夫そうだという気がして、軽く会釈を返してインターフォンを押しに戻った。

「はい、是枝でございます」「あ、碓井です。こんばんは」「碓井先生、こんばんは。少々お待ちくださいね」というやり取りのあと、少し遠いところでドアが開く音がして、軽い足音が近づいてくる。

「今日は突然ごめんなさいね。沙弓ももう帰っておりますから」

 知ってます、と言うわけにもいかないので、「いえ」と短く答えた。沙弓ちゃんのお母さんは、いつもぱりっとしたシャツを着ている。春夏は白と水色が主で、秋冬はブラウンとカーキになる。今日はごくうすいベージュだった。

 広い玄関で靴を脱いでいると、先ほどのお母さんのものより更に軽い駆け足の音が聞こえてくる。同時に、「沙弓、なんなのその格好」という驚きと軽い叱責が玄関ホールに響いた。

「なにが? ふつうの格好だよ」

 靴を揃えて顔を上げたら、目の前に沙弓ちゃんの真っ直ぐな二本の脚があった。ホットパンツからでている太腿の直径は、ふくらはぎと然程かわらないのではと思われるほど細い。それに、肩からずり落ちそうな襟ぐりの広いニットを合わせている。肩にはキャミソールのひも。たぶん見えてもいいものなのだろうけど。すべてが相俟って、無防備極まりない格好になっている。一つ一つのアイテムはシンプルなので、沙弓ちゃんが「ふつうの格好」と言う気持ちもわからなくはないが、お母さんがびっくりするのも無理はないとも思う。

 小言を重ねようとしたお母さんに背を向けて、沙弓ちゃんは僕の腕をさっと取った。

「いこう。先生」

「あ、うん。じゃあ、今日もよろしくお願いします」

 引っ張られながら頭を下げると、お母さんはやれやれという顔をしながら、「あとでお茶をお持ちしますね」と言った。

 家庭教師のアルバイトは、大学でお世話になっている教授の紹介で一ヶ月ほど前から始めた。沙弓ちゃんのご両親、是枝夫妻は歯科医院を経営していて、教授はそこに患者として通っているそうだ。「中学生の娘さんに勉強を教えてくれる子はいないかと言われて」と、教授から言われたときに頭に浮かんだ女子中学生と、目の前でぐしゃぐしゃの小テストの皺を伸ばしている沙弓ちゃんとは、色んな意味でギャップがある。

「十二点」赤いペンで弾くように書かれた数字を読み上げる。「ちなみにこれは、何点満点なの?」

「百点」

 机の上に堆く積まれていた漫画をベッドへと移動させながら、沙弓ちゃんは答える。訊いた自分が馬鹿みたいに思える、明快で無駄のない答えだ。

「でも、点数が取れた問題はこの一ヶ月で碓井先生に教えてもらった範囲のところだよ」

 椅子に掛け、「だから大丈夫」と、なぜか僕を励ますように沙弓ちゃんは言う。どこから突っこめばいいのかわからなくなったので、とりあえずその言葉は聞き流すことにした。

「大体さ、すぐに中間テストがあるのに、抜き打ちで小テストするなんて」

 つんと尖った小さな鼻に皺を寄せ、わざと下品な表情を作る。細長い——沙弓ちゃんはそれほど長身ではないが、頭が小さく、手足がすらりと細長い——脚を一端の大人みたいに組みかえて、「やり方が卑怯なんだよね」と鼻息を吐いた。僕はその言葉も聞き流した。

 中間テストの範囲を中心に勉強を進めた。沙弓ちゃんは、のみこみは悪くないのだけれど集中力が極端に弱い。問題に関する質問から飛躍したお喋りを、上手く交わしたりときには付き合ったりしてやっと三分の一を終えた頃、お母さんがクッキーと紅茶を運んできてくれた。

「お夕飯、食べていってくださいます? 今日は買い物が間に合わなくて、有り合わせのものばかりになりますけど」

「あ、いえ、」

 即座に断るのも失礼だとは思ったが、わざわざ作ってもらうのもなあ、と迷っていたら、

「食べていってよ、先生」

 と沙弓ちゃんが僕の腕にしがみついた。沙弓、とお母さんが咎める。参ったなと思いながら、「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」と頭を下げた。

「買い物が間に合わなくてーって。買い物なんかいつもはお手伝いさん任せじゃん」

 ドアが閉まり、階段を下りる足音がすっかり聞こえなくなってから沙弓ちゃんがべえっと舌をだす。

「ママ、碓井先生のこと気に入ってるんだ。賢くて礼儀正しくてツツシミがあるから、だってさ」

「慎み?」

 って、具体的にどういうこと? という意味をこめて訊ね返したのだが、

「そ、ツツシミ」

 沙弓ちゃんは細い肩を持ち上げて繰り返すだけだった。ソーサーに添えられていたレモンをカップに落とし、ティースプーンでぎゅうぎゅう押して絞る。

「ママは、男の子も女の子も品がなくちゃいけないって言うの。よくわかんないけど」

 男の子という言葉に、木登り——もとい、木下り少年のことが頭に浮かんだ。沙弓ちゃんも同じことを考えていたのだろう。僕に目配せすると、

「あいつは彼氏じゃないよ」

 と言う。そんなこと僕に言われてもな、と思う。

「この家を建てる前住んでた家の近所の子。歳は二個上。外ではときどき会ってたけど、部屋に入れたのは今日がはじめて。靴を隠してたのは、ママがいつ帰ってくるかわかんなかったから。男の子を部屋に入れたなんて知ったら怒り狂うから。そうじゃなくてもあいつのこと嫌いなのに」

 謎の報告に、「ふうん」と相槌を打ちながら、沙弓ちゃんの本日の集中力は最早消失した、と心の中でため息をついた。

「碓井先生、いまも彼女いない?」

「いないよ」

 その質問は一ヶ月前、はじめましての次に投げかけられた。そのときと同じように答える。

「じゃあ、好きな人は?」

「いるよ」

 ひゃあー、と、沙弓ちゃんは不思議な声を上げた。どんなわがままも生意気も最終的には許されてしまうのだろうなと思わせる、愛嬌のある大きな瞳をまんまるにして。

「どんな人っ」

 細い腿。棒切れみたいな華奢な脚。柔らかそうな白い肌。彼女より二つ年上ということは、木下り少年は高校生だ。こんな女の子と二人きりになれるのなら、どんな仕打ちも厭わない年頃かもしれない。

「綺麗な人」

 簡潔に僕は答える。

「美人系かあー」カップを置き、沙弓ちゃんが腕組みをして唸る。「しかも、碓井先生と同じ大学だったら、超超超賢いんだよね。うーん」

 無邪気な口調が新鮮でおかしくて、僕はなんだか自分がふつうの片思いをしているみたいな気分になった。中学二年生の沙弓ちゃんの頭の中では、好きな人というのは同じ学校にいるものだという式ができあがっているのだ。

「そうだね。超超超賢いよ」

 もし、と僕は思う。もし、聖爾が進学していたら、きっと僕の第一希望の大学にだって入れたはずだ。そこより偏差値の高い大学の合格判定を貰っていたのだから。

「美人で、超超超賢くて、ほかには? なんか具体的に」

「具体的に?」

 うん! と沙弓ちゃんが勢いよく頷く。お願いごとをするとき、身体を寄せてくるのは彼女の癖らしい。無意識なのだとしたらいまのうちに直したほうがいい気がする。うすっぺらい胸。

「……歯が白い?」

 聖爾の笑顔を思い浮かべながら言うと、「歯かあー。歯は大事だよねえー」と沙弓ちゃんは真面目に言った。コアラの子供みたいに、僕の腕にしがみつきながら。

 死ぬほど勉強しても、死にはしない。鼻血くらいはでるけれど。

 だから僕は死ぬほど勉強しようと思う。第一希望の国立大学に落ちたときのような後悔はもうしたくない。受かったのは第二希望の大学で、私立だった。奨学金の制度があるとはいえ学費は倍近く違ってくる。浪人をするわけにもいかないし、進学は諦めようと思った。だから聖爾にもそう言った。そうしたら、見たこともない剣幕で怒られた。こわい、と思うより先に心配になった。どこかの血管が切れるんじゃないかって。

「金は死ぬ気で稼ぐ」

 聖爾はきっぱり言った。

「雅臣は雅臣のやるべきことを死ぬ気でやれ」

 ぽかんとしてしまった。どこの少年漫画だよって思った。そして、めちゃくちゃ格好いいって思った。僕は聖爾に敵わない。

 アルバイトを終えて自宅に戻ると、玄関の戸を開けた瞬間にピザのにおいがした。適当に食べてねと言った日は大体こういうことになる。僕は靴を脱ぎながら、ごみ箱に無造作に捨ててあるであろう四角い紙の箱や、冷蔵庫に入っているであろうコーラのペットボトル——中身が中途半端に残っている——を思い浮かべてため息をついた。

「おかえり、雅兄」

 居間にいこうとしたとき、奥の扉が開いて直輝が顔をだした。風呂上りなのだろう。タンクトップにハーフパンツという夏みたいな格好をして、全身から温かな湯気を立ち上らせている。言ったらきっと物凄く嫌な顔をするだろうけど、濡れた髪をタオルでがしがしと拭く豪快さは少し聖爾に似ている。

「ただいま」

「武兄がきたんだ」

 不思議な唐突さで直輝が言った。「そう」と首を傾げて答えると、

「二人がピザを取ろうって言ったんだ」

 と、つけ足す。つまり、ピザを取ったのは自分の本意ではない、ということが言いたいらしい。真面目な顔をしているのがおかしくて思わず笑った。

「そう。元気だった? 武兄」

「元気だった。みい兄と武兄が一緒にいると、子犬が二匹いるみたいですごく賑やかだったよ」

 兄と兄の友人に対する表現としてはどうかと思ったが、それを抜きにすれば的確な形容だ。僕は笑顔のまま、三度目になる「そう」を口にした。頷いた直輝は少しだけ考えてから、「でも」とつぶやく。

「でも、雅兄と二人でごはんを食べるのも、いいよ。静かで」

 なんと答えたらいいのかわからなかった。喜ぶべきことなのか判断がつかなかった。肯定的であるにもかかわらず、それは言葉というかたちになることで奇妙な距離を生むせりふだった。もちろん直輝にそんなつもりはないだろうけど。

 不意に、祖母が僕を一度もあだ名で呼ばなかったことが頭に浮かんだ。

「お風呂のお湯、抜いちゃった。雅兄もう少し遅くなるかと思って」

 とくに相槌がないことを察した直輝が言った。答えられる言葉を投げかけられて、僕はたぶんあからさまにほっとしていたと思う。

「ああ、うん。大丈夫。シャワーで済ませるから」

 微笑みのようなものを浮かべ、なんとなく逃げるように背を向けた。

 居間で勉強をしていたらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。前髪をふわっと掬われるような感覚に瞼を開くと、目の前に聖爾がいた。胡坐をかき、珍しい動物でも見るみたいに僕を覗きこんでいる。節の目立つ大きな手が、僕の髪を掬っては落とす。

「……おかえりなさい」

 ほんとうは物凄くびっくりしていたのだけれど、寝起きで状況が把握できていない、というような声をだした。口から飛びでそうになった心臓をどうにかのみこんで。そうすることで、この時間が少しでも長く続けばいいと思いながら。

「ただいま。珍しいな、下で勉強してるの」

 だけど努力も虚しく、聖爾の手は離れてしまう。なんの余韻も残さずに。

「うん」

 居間にいた理由——火曜日は聖爾が比較的早く帰ってくるから——は言わなかった。目元を擦って立ち上がり、

「夕飯はどうしたの? なにか食べる?」

 と訊ねた。壁掛け時計は午前一時四十五分を指していた。思っていたよりずっと遅い。

「いや、いいよ。明日も大学だろ?」

 白い歯をほんの少し見せて微笑み、聖爾が僕を見上げる。黙っていたら、今度は声をだして笑った。

「こわい顔するなよ」

「もともとこういう顔なんだよ」

 聖爾といると、自分が背ばかり大きくなっただけの子供のように感じられる。実際いまも、困らせるとわかっているのにむっとした顔をしてしまうのだ。そうすれば聖爾のほうから折れてくれると経験則的に知っている。

「なにがあるの?」

 聖爾が胡坐を崩し、片膝を立てて座りなおす。頭が痺れそうなくらい優しい声。

「簡単なものしかできないけど。焼き飯とか、お茶漬けとか、うどんとか」

 突っ立ったままぶっきらぼうに言う。目を合わせていると息が詰まるので、なにかを探すふりをして台所のほうを見た。聖爾はたぶんお茶漬けを選ぶだろうと思いながら、具にできるものを考える。

「お茶漬けは、なに?」

「梅、か、鮭。あと高菜」

 鮭、という答えが返ってくるだろうと予想していたら、

「一緒に食べようか」

 という、思いもよらない言葉が聞こえた。振り返ると、真っ黒な瞳と真正面から見合う格好になった。僕とは似ても似つかない切れ長の目。奥二重の瞼。

 いくらでも答えようはあった。「僕はもう食べたから」とか、「お腹減ってないから」とか、単純に、「どうして?」とか。だけど結局のところ、選択肢なんてあってないようなものだ。聖爾は、兄としての命令はできても、個人的なお願いはまったくできない。食事の間そばにいてくれ、という簡単で些細なことすら。だけどそれは僕も同じことだ。弟としてでなければ、お茶漬けを作ってあげることも、一緒に食べることも、できない。

「……じゃあ、僕は高菜。聖爾兄さんは?」

「鮭」

 今度こそ予想通りの答えが返ってきた。

「そう言うと思った」

 と僕が言ったら、

「そう言うと思ったって言うと思った」

 と聖爾が言った。目尻に皺を寄せて。子供みたいに嬉しそうに笑って。

 台所のテーブルで、高菜と鮭のお茶漬けと、きゅうりとトマトをざく切りにして和えただけのサラダを食べた。テレビもつけず、もちろん音楽もなく、お互いがお茶を啜る音やきゅうりを咀嚼する音がやけに大きく響いていた。口を開くのはたいてい聖爾で、来月頭にオープンを控えている店のこと——こぢんまりしたステーキハウスで、ワインの種類が豊富なことを売りにするらしい。聖爾はその店の店長になる——、常連客が飼いはじめた犬のこと——ペレ、という名前。「ファンなんだって」とのことだが、真っ白なポメラニアンに似合いの名前だとは思えない——、中田さんのオヤジギャグが以前にも増してひどくなってきたこと——「アルバイトの子の笑顔が引き攣ってるのがわかるんだ」——などを話した。僕は短い相槌を打ちながら、さっきの直輝の言葉を思いだしていた。

「聖爾兄さん」

 向かいに置いてある、米粒一つ残っていない茶碗を眺める。

「僕、静かすぎる?」

 聖爾は不思議そうに眉を持ち上げた。言葉が足らなかったと思い、

「ほら、僕あまり喋らないから。一緒にいてもつまらないんじゃないかなって」

 と早口で言った。

「喋ってるじゃないか、いつも」

「でも、」

「つまらないわけないだろう」

 呆れている、或いは微かに怒っているという口調だった。なにを馬鹿なことを、と言わんばかりの、ぴしゃりとした物言いだ。聖爾が厳しい顔をすると、僕はなんだか甘やかな気持ちになる。大きな手がこちらに向かって伸びてくる気配を感じて、反射的に瞼を閉じた。前髪をわしわしと掻き雑ぜるようにしながら、聖爾がふっと笑う。見なくてもそれとわかる、眩しげに目を細めた穏やかな笑顔。指が耳に触れる。僕は呼吸の仕方を忘れる。

「なんだ? 急に。気になる女の子に手厳しく言われたのか?」

 聖兄はいちいち古臭い、という直輝の言葉が過る。確かに、具体的にどうと上手くは言えないけれど、アプローチが古臭い。というか、オヤジ臭い。そういうヴェールを被っているうちに、被っていること自体を忘れてしまったみたい。

「いないよ、そんなの」

 甘やかな気持ちは瞬時に消えてしまう。

 前髪をいつも長めにしているのは、この人に撫でてもらうためだと言ったら、人はきっと笑うのだろう。この長い指が、小柄な一番目の弟でもなく、どことなく幼さの抜けない末の弟でもなく、愛想がない上に自分より背の高い弟の頭をこうも撫でるのは、ほかの二人に比べると柔らかな髪質のせいだと思う。

 そんなことで? って、笑いたければ笑えよ。それで、ひとしきり笑ったらもう放っておいてくれ。僕は罪なんか犯していない。——だろ?

 

(続きは本編でお楽しみください)