第一章

『ぼくのうさぎちゃん』より


「陸は、ペットとか飼ってないよね? いま」

 そう声をかけられたのは、とんかつを箸で掴んで油をざっと切った瞬間だった。

 声につられて目線を上げると、白いシャツに赤い蝶ネクタイという制服姿の青年が立っていた。何度見ても七五三みたいだ、と有坂陸人(ありさかりくと)は思う。ほかの人を見てもそうは思わないので、この先輩が特別似合いすぎるだけなのだろう。

 陸、というのは陸人のあだ名だ。国道沿いの、車でないとちょっと辺鄙なところにあるこのファミリーレストランで陸人のことを陸と呼ぶのは、ホールでは一番の古株である木ノ下具美(きのしたともみ)だけだ。

 陸人はバットにとんかつを引き上げ、熱いうちにまな板にそれを移して包丁を入れる。さくっという小気味よい音は一瞬、厨房の暑さもとんかつの熱さも忘れさせてくれるほど気持ちいい。これは汗をかきながら作った人間にしかわからない。大袈裟だと笑われるかもしれないがそう思う。

 とんかつを五等分にして、つけ合せのきゃべつが盛ってある皿にのせて具美に渡す。ここまで、陸人は先ほどの問いかけに対する答えを口にせずに無言で作業を続けていた。具美は白米をふたつきの椀によそいながら、そんな陸人を心持ち上目遣いでふたたび見遣った。無言の攻防戦である。

 嫌な予感がする、と陸人は思う。むしろ、嫌な予感しかしない。肘まで捲ったコックコートの二の腕のあたりで無理矢理に額の汗を拭うようにすると、

「飼ってませんけど、飼いませんよ」

 と、なるべく素っ気なく響くように言った。

 年は四つ上だがアルバイト歴としては同期の具美は、女の子みたいな赤い唇を尖らせると、「話だけでも聞いてよ」と言いながら右手にAセット(とんかつ、味噌汁、ご飯)左手にお子様ランチを持ってホールにでていく。

 具美がああいう顔をするとき、つまり上目遣いでじっと見つめてくるときは、碌なことがない。陸人は経験上、それを嫌というほど知っていた。

「奢るから」という言葉にのせられて高級焼肉をたらふく食べたあと、連れていかれたカフェで恋人役をやらされた。相手の女の子はまさか男の恋人がくるなんて思っていなかったようで、真っ青になりながら呆然としていた。驚きは最終的に怒りにかわり、なぜか陸人だけが女の子に水をぶっかけられた。

「陸のスタイルを活かしたすごくいいバイトがあるよ」と言われていってみたら美大のヌードモデルだったこともあった。あとから聞いた話によると、紹介料というのが具美にも入るらしい。もちろん具美が脱ぐことはないのにだ。

 その他諸々、こまかいものを挙げだしたらキリがない。

 そもそも、具美の見た目が悪い、と陸人は思う。そんじょそこらの女の子よりも白い肌、生まれつきだという栗色の髪、長いまつ毛、小柄な体型に、柔らかな物腰。決して馬鹿っぽくはないのに、どこか相手のガードを下げる話し方と声。これで騙されないやつがいるもんか――という具合に、結局いつも惑わされ、「今回こそは大丈夫なのではないか」と思ってしまう自分に一番腹が立つ。騙された、と思った直後は具美に対して腹が立つのに、現金を渡されたり美味いものを食べさせてもらうと、「まあいいか」と思ってしまう自分に。ちなみに、ヌードモデルをやったかって?――それは内緒、である。

「とにかく、あとで話すから。先に上がっても帰らないで待っててよ」

 料理を運んで戻ってきた具美が、細い腕で次のお盆を持ち上げて言った。陸人は断ろうとしたが、タイミング悪く客からの呼びだしコールが鳴る。陸人がいる厨房にも、ホールからの新しいオーダーがレシート状になって吐きだされてきた。辺鄙なところにあるわりに、このファミリーレストランは客入りが結構いいのだ。

 今回もなにか碌でもないことを頼まれるに違いない。陸人は冷蔵庫からソースの入ったパックを取りだし、冷気のせいではなく具美のまなざしを思いだしてぶるりと震える。普段は具美となんとなく時間を合わせて帰ることが多いが、今日はできるだけ早く着替えて話をする隙など与えないように帰ろう。バタンと扉を閉めながら、心に決めた。

 心に決めてはみたものの、時間通りにいかないのがサービス業の辛いところだ。特に陸人の場合は厨房で一番の古株なので、混んでくるとなかなかシフト通りに上がれないのが現実である。十時までの勤務のはずだったが、結局タイムカードを押したのは十時三十五分で、もちろん休憩室には一足先に仕事を終えた具美が着替えを済ませた状態で待ち構えていた。

「お疲れさま」

 語尾にハートマークか星マークでもつきそうな、軽やかな声と愛くるしい微笑みを向けられ、陸人はうんざりした表情を隠すことも諦めて休憩室のパイプ椅子に掛けた。制服のキャップを脱いで髪をがしがしとわざと乱すようにする。働いたあとはいつも、汗と脂の混ざったにおいがして不快だ。

「十時前に団体客がくるなんてついてないよねえ。今日キッチンのほうメンバー弱かったから大変だったでしょう? 疲れただろうと思って、近くのコンビニまでひとっ走りして、ほら、陸のために買ってきたんだよ」

 陸のために、のところを強調しながら具美がさしだしたのは、白地にブルーの水玉模様がプリントされたペットボトルの、陸人の好物である乳酸菌飲料だった。「はい」と笑顔でさしだされたそれを陸人が受け取らなかったのは、受け取ったが最後無理難題を吹っ掛けられると思ったからにほかならない。

「……なんなんですか」

「まあまあまあ、今回はさ、陸にとってもすごおくいい話だと思うんだ。陸も親元離れてでてきて、バイトと学校の往復で、入学してからずうっと付き合ってた彼女には最近振られるし、楽しみにしてた合コンで出会った可愛い女の子には“あたし背が百八十以上ある人じゃないと無理なの”って言われるし、とにかく踏んだり蹴ったりじゃない?」

「ほっといてくださいよ」

「癒されたいなあって思うよね? ぼくなら思う。思うはず!」

 ペットボトルと具美の顔が鼻先まで近づいてきて、のけぞった陸人は思わず後ろにひっくり返りそうになる。

「なんなんですかってば」

 先ほどよりも大きな声で言うと、具美は大きな瞳を三日月形にして微笑んだ。陸人のこめかみのあたりに嫌な汗が流れる。猫系の顔だとは思っていたが、そうして笑うと可愛い猫ではなくて化け猫のようだ。もちろん思いはしても、口にはださないが。

「ぼくからのプレゼントだよ。とっても気に入ると思う。あ、お礼とか、気を使わなくてもいいからね」

 隣の椅子の上に準備していたらしく、具美はそっと白い箱を取りだしてテーブルの上に置いた。

 具美が両手で包んでぴったりというサイズの、うすい紙でできた白い箱は上部にぷつぷつと針で突いたような穴が開けられている。そうして、ごくわずかではあるがかさかさという音もする。キッチンでの第一声からいままでの発言をまとめると、それが生き物であることはあきらかだった。

「お、お気遣いはありがたいんですけど、うちのアパート動物飼えないんで」

 っていうか自分養うのに手いっぱいなんで、と辛うじて笑みのようなものを浮かべながら立ち上がると、具美も勢いよく立ち上がった。

「ひどい!」

「はっ?」

 自分よりわずかに背の低い先輩は、わざと瞳を潤ませて陸人を睨んだ。彼が女の子ならころりと騙されてもおかしくないが、彼は“彼”であるし、一体いままでこの瞳に何度騙されたことか、と陸人は再度確認するように思いだして身震いする。

「いくところがないのに……。かわいそうな子なのに……。まさか陸が、小さな動物を見殺しにするようなやつだとは思ってなかった」

「いや、じゃあグミ先輩が飼えばいいじゃないっすか」

 具美の“具”の字を音読みにした、柔らかくカラフルなお菓子を連想させるそのあだ名は小柄で可愛らしい先輩にぴったりだ。もちろん、「見た目だけなら」ぴったりだと陸人は思っている。眉を顰めながら、横目でテーブルの上のかさかさ動く白い箱を一瞥する。

 かわいそうもなにも、第一、中身がなんなのかも教えてもらっていない。箱は小さいが、これから物凄く大きくなる可能性のあるものかもしれない。

「だってぼくんちにはニャンコがいるし」

 まるで他人事のようにしれっと答えられて、思わずため息がでる。

「っていうか、中身もわかんないのに飼えるわけないでしょ」

 陸人はつっけんどんな口調で言ってから、その瞬間に自分がしでかしたミスに気付いた。しかし気付いたときには既に遅く、具美はふたたび甘く微笑むと「待ってました」と言わんばかりに白い箱を持ち上げた。

「中身がわかれば問題ないよね。そうだそうだ。もうね、一目見たら恋に落ちちゃうよ」

 阻止する暇もなく、白い箱のふたは具美の手によって開かれた。そうして不本意ではあったが、具美の言葉は確かに間違いではなかった。もちろんそんなことは口が裂けても言えなかったが。

 それは、ミルクティみたいなうすい色をしていた。

 触れなくとも、柔らかいのだろうと想像がつく。瞳は黒く濡れていて、身体はこまかく震えていた。柔らかそうな耳は、テレビや写真なんかで見るものとは違ってくにゃりと垂れ下がっていて、その間抜けな感じがなんとも言えず愛らしい。陸人は一瞬息をのみ、まじまじとその生き物を眺めた。

 具美が勝ち誇ったようにふふんと笑う。

「かっわいいでしょ? 一目惚れしちゃうでしょ?」

 と言いながら、それを箱ごと陸人の胸元に押しつけるようにした。

「わ、」

 突然のことに小さく声を上げながら、陸人はそれを受け取った。受け取るつもりはなかったのだが、具美が手を離したのだ。

「危ないじゃないですか」

 落ちたらどうするんですか、という非難の視線を向けたが、具美は笑顔で続けた。

「うさぎのキュウちゃんでっす!」

「……は?」

「え、陸もしかしてうさぎ見たことないの? あ、わかったあ。耳が垂れてるからびっくりしたんだ? これはねえ、ホーランド・ロップと言ってうさぎの中でも人気の――」

「いや、そうじゃなくて」

 具美の必要以上に丁寧な、ともすればやや押しつけがましい説明を遮るように陸人は言った。

「俺が“……は?”って言ったのは、もう名前が決まってんのかってことですよ。ふつう名前は飼い主が決めるもんでしょうが。しかもあんま可愛くないし、その名前」

 視線を胸元に下げると、丸くて黒い瞳がこちらを見上げるようにしていた。一瞬頬が緩みそうになるが、大学とバイトの往復で家にいるのは寝るときだけ、という自分がこんなデリケートそうな小さな動物を飼えるわけがない。可愛いからと言って無責任に「飼います」などとは言えない。

「うーん。名前に関しては同感だよ。でもオスだからさ、イチゴちゃん、とか、リボンちゃん、とかも気持ち悪いじゃない? もともと違う飼い主が決まってたんだけどね、わけあって飼えなくなってさ。その飼い主がつけたんだよ、キュウちゃん。まあ、漬物が大好物だったんじゃない? それかオバケの漫画を愛読していたとか?」

「“ちゃん”づけにするから漬物っぽさが増すような……。っていうか、飼えません」

「ええー! こんなに盛り上がったじゃない、いま!」

「いやべつに盛り上がってませんよ」

「可愛いじゃないキュウちゃん!」

「ていうか、あんまり大きい声ださないでくださいよ。震えて、かわいそうじゃないですか」

 触ってしまうとまずいとは思ったが、思わず小さな額に手が伸びた。人さし指でそろそろと撫でると小さなうさぎ――あまり可愛い名前だとは思えないが、キュウはきゅっと目を瞑った。陸人は無意識に相好を崩し、具美がそれを見てまたにんまりと笑う。

「陸が飼ってくれないと、キュウちゃんの運命は地獄だよ」

「は?」

「公輝(まさき)の大学に連れていくことになる」

「ええっ」

 恐ろしい名前に大きな声をだしてしまい、はっと胸元に視線をやると、キュウがふるふると身を震わせていた。

「ああ、ごめんごめん」

 人さし指で顎の下のあたりを撫でる。きゅうっと弓なりに細くなる瞳に、陸人もつられて目を細める。名前と仕種がぴったりだ。

喜嶋公輝(きしままさき)は、具美の同居人である。年は陸人より一つ下だが、年上を敬うということを知らない不躾な物言いをする男で、その性格の悪さに比例するように頭もよければ顔もいい。ただ、勉強を除いては漫画とアニメとゲーム以外にまったく興味を示さない変人であるので恋人はいない。具美とは腐れ縁だとしか聞かされていないが、とにかく二人に関わると必ず災難に巻きこまれるので陸人は彼らの家に招かれてもほいほいとは遊びにいかないことにしている。むろん、月末で財布の中身がピンチのときは例外だ。

 そして恐ろしく頭のいい公輝は獣医になるべくせっせと大学で勉強に勤しんでいる。どういう勉強をしているのかは聞いてもさっぱりわからないが、彼が食卓でだす話題はスプラッタに弱い陸人にはいつもぞっとするものばかりだった。

「この前もねえ、ラットの解剖の話をしたんだけどお」

「いやいやいや、べつにこいつを連れていく必要はないでしょうっ」

 近づいてくる具美から庇うように腕でキュウを隠すと、具美は畳み掛けるように、「でも、保健所で殺処分されるよりは役に立つって公輝が」と言う。殺処分という不穏な言葉に陸人が顔を青くすると、具美は聖母のように優しく微笑んだ。

「ご飯代とかはさあ、ぼくも負担するよ。“正しいうさぎの飼い方”の本ももれなくプレゼントする。お願いだよ、陸しかいないんだ。わけあって手放されたかわいそうな子なんだよ。な? 瞳が訴えてるだろ?“りく~りく~”って」

「そんな適当な……」

 それでも、飯代を負担してもらえるというのなら金銭的な問題は軽減される。陸人が考えを巡らせていると、具美が更ににっこりと微笑んで言葉を続ける。騙されている、或いは言いくるめられているとわかっているのに、微笑まれるたび思い通りになってしまう自分が悲しい。

「キュウって呼んでごらんよ。ぼくが呼んでもちっとも反応しないけど、陸が呼べばきっと反応するよ」

「そんな、」

「ほんとだってば!」

 ね? と強く言われてしぶしぶ、あまり可愛いと思えない名前を呼んだ。

「キュウ……」

 ぼそっと呟くと、垂れた耳がぴくりと動いた。見上げてくる濡れた瞳と視線がぶつかる。その瞬間、陸人は自分の心臓に物凄い勢いで矢が刺さったような気がしてしまった。すとっ! と、刺さる音すら聞こえたほどだ。

「ほらねっ。試しにぼくが呼んでみようか? キュウちゃーん」

 必要以上に大きな声で具美はその名を口にしたが、くたりと垂れた耳は一向に動くようすを見せない。飴のようにつるりとした黒い瞳は、陸人を見つめ続けている。

「……正しいうさぎの飼い方の本、今日持ってるんですか」

 観念した、という気持ちで陸人は言った。後先考えずに生き物を飼うなんてことを、ほんとうはしてはいけないと思っているのにだ。

 自分でも説明のできない胸騒ぎにも似た高揚に、陸人自身が参っていた。

 具美は白い歯を見せて、「もちろん持ってるさ。ご飯も、一週間分用意したんだよ」とロッカーを開けて紙袋を取りだす。絶対に陸人が断れないということが具美にはわかっていたのだ。そう思うと、陸人は自分が如何に単純なやつだと思われているかということと、実際に単純であることが露呈した気がして情けなくなった。

「やっぱり飼ってくれるんだね。陸はほんとうに優しくていい子だ。キュウちゃん、よかったねえ」

 かがむように膝に手をついて陸人の胸元の箱を覗きこみながら、具美は小さな声で、

「とりあえずは、よかった、かな?」

 と呟いた。もちろん陸人には聞こえないように、とても小さな声で。

「何日か預かるだけっすよ」具美の声など聞こえていない陸人は、眉を顰めながらぶっきらぼうに言う。「うちはペット飼えないし、友達とかあたってみます」

 陸人がそう言いながら胸元の箱をテーブルに置こうとすると、箱の中のキュウが、

「きゅう」

 と小さく鳴いた。短い手足をじたばたと箱の中で動かすさまが愛らしく、具美がくすっと笑う。陸人はというと、はじめて聞く鳴き声に少し驚き目を瞬かせた。

「一時でも陸と離れるのが嫌なんだよね、キュウちゃん」

「そういうわけじゃないと思いますけど……」

 言いながら赤く頬を染める、善良と平凡を絵に描いたような友人を見つめながら、具美はいつも通りの微笑みを浮かべる。浮かべこそしていたものの、心の中では一抹の不安を抱えていた。

 ――大丈夫だとは思うけどなあ……。

「着替えるだけだから、な? 一緒に家に帰ろうな」

 陸人はぶっきらぼうながらも声に本来の優しさを滲ませながら、キュウの頭をそうっと撫でる。

「キュウって名前も、なんか悪くなく思えてきた」

 黒く濡れた瞳を見つめながら、陸人はそう言って照れくさそうに笑った。

 

 

『ぼくのうさぎちゃん』第2章につづく